アロー戦争は第2次アヘン戦争とも呼ばれるほど、アヘン戦争と深く関わっている。本記事ではアロー戦争の背景と経緯、日本の江戸幕府へ与えた影響を解説していく。
アロー戦争(アロー号事件)とは?わかりやすく解説
アロー戦争とは、アロー号事件とも呼ばれ、1856年から1860年に起こった清とイギリス・フランス連合軍との戦争である。1840年に起こったアヘン戦争の講和条約である南京条約との関連が強いため、第2次アヘン戦争とも呼ばれる。
アヘン戦争に敗北した清は、南京条約においてイギリスに有利な条約を結んだ。しかし、イギリスの期待に反して、清の対外的な姿勢は変わらず、また貿易も伸び悩んでいた。イギリスは開港場を増やして貿易を盛んにし、北京に外交官を置いて直接清朝政府と交渉することを望むようになっていた。
このような中で、特にアヘン戦争で開戦の場となった広州において、外国人排斥運動が激しくなっていったのである。
1856年10月、広州の港に停泊していたアロー号という貨物船を、清国政府の官憲が立ち入り検査したことがきっかけとなった。官憲が中国人の船員を逮捕し、イギリス国旗をひきずり下ろしたことを口実に、イギリス軍は、フランスと共同で出兵したのである。
イギリス・フランス連合軍は清軍を圧倒し、1857年に広州を占領すると天津郊外の砲台も占拠し、北京に迫ったのだった。
イギリス・フランス連合軍に屈した清は、1858年に天津条約を結んだ。しかし1859年の条約批准の際、清軍が砲撃を行ったことから再び戦闘になった。イギリス・フランス連合軍は北京を占領して勝利し、1860年に北京条約が結ばれて戦争は終結した。
アロー戦争の背景
アロー戦争が起こった背景には、アヘン戦争で結んだ南京条約が大きく影響している。アヘン戦争は、アヘンの密貿易をしているイギリスに対し、清がアヘンを禁止し、没収したアヘンを投棄したことがきっかけとなった。海戦で圧倒したイギリスは1842年にアヘン戦争に勝利し、有利な条件で南京条約を締結したのだった。
南京条約の影響
1842年、アヘン戦争の講和条約として、イギリスと清との間で南京条約が結ばれた。
南京条約によって清は、広州、福州、厦門、寧波、上海を開港すること、イギリス領事館を置くこと、香港の割譲、賠償金を支払うことについて認めることになったのだった。さらに領事裁判権や関税率についてもイギリスの言いなりで、イギリスを最恵国待遇にすることを認め、アヘンについても黙認することになった。
このような状況で、広州を中心に外国人排斥運動が広がり、イギリス人を対象に暴動が起きていた。イギリス商館焼き討ち事件も発生したのだった。
特に問題となったのは広州入城についてである。広州は城壁に囲まれた都市で、外国人が中に入ることが許されなかった。イギリス側は清朝政府との直接交渉を望むが、外交窓口は欽差大臣だとして対応されず、不満が高まっていた。
またイギリスは貿易の増大を期待していたのだが、思うほどに輸出が増えず、一層の貿易拡大を求めていた。
アロー号事件の発生
1856年10月、広州の港に停泊していた貨物船アロー号へ清朝官憲が乗り込んできた。海賊容疑によって取り締まりが行われ、中国人の船員が逮捕されたのである。(アロー号事件)
これに対しイギリス側は不当な臨検だと主張し、国旗を引きずり下ろすことは国家の侮辱にあたると抗議し出兵したのだった。
アロー戦争の経緯
清朝官憲は、広州の港に停泊していたアロー号を海賊船として立ち入り検査し、中国人船員を逮捕した。イギリス側は、イギリス国旗を引きずり下ろすのは国家に対する侮辱だと抗議した。これに対して両広総督の葉名琛(しょうめいちん)は強硬な態度をとっていた。
イギリス政府は清国への出兵を決め、全権大使にエルギン伯爵ジェイムズ・ブルースを任命した。
イギリス・フランス連合軍は広州を占領し、葉名琛を捕らえた。
イギリス・フランス・ロシア・アメリカの全権大使連盟より、条約改正の交渉を求めたが満足できる回答を得られず、北上し天津を制圧した。
イギリス・フランス・ロシア・アメリカ各国と天津条約を結んだ。しかし清朝政府は条約を非難し、条約の内容を変更しようとする動きが強まっていた。
天津条約の批准書を交換するために訪れたイギリス・フランスの艦隊は、清軍により大沽砲台から砲撃されたため撤退した。
イギリス・フランス連合軍は大沽砲台を占領した。
清軍は大沽砲台より敗走していた。イギリス・フランス連合軍は進軍し、清軍と八里橋で戦闘になった。八里橋は陥落して、連合軍が北京へ迫ったため、感豊帝は熱河へ避難した。
イギリス・フランス軍によって北京が占領され、円明園では略奪と破壊が行われた。
清朝とイギリスにおいて北京条約が結ばれ、アロー戦争は終結した。10月25日に対フランス、11月14日に対ロシア帝国とも北京条約が結ばれた。これによってロシアは、沿海州の領有を認めさせ、ウラジヴォストーク港を建設した。
アロー戦争の結果
アロー戦争によって、清朝は各国と北京条約を結ぶことになった。既に1858年に天津条約を結んでいたが、再度戦闘となり、1860年に北京条約として、天津条約の批准交換と追加条約が締結されたのである。
天津条約
天津条約は、アヘン戦争で結んだ1842年の南京条約をさらに拡大した不平等条約であった。南京条約からわずか16年で、イギリス・フランスなどの権益が増大したのだった。
- 外交官の北京在住・・・イギリス側が、直接、清朝政府と交渉できるようにすること。
- キリスト教の布教の自由・・・キリスト教の自由な布教活動を認めること。清朝は雍正帝の時にキリスト教の布教を禁止していた。
- 外国人の中国の旅行と通商を認め、治外法権とする・・・開港場において、土地の購入や居住、教会、病院を建設することを認めること。中国国内の自由な旅行や通商を可能とすること。
- 開港場の追加・・・牛荘、登州、淡水、台湾、潮州、瓊州の6港と、鎮江、漢口、九江、南京の4市を開港すること。
- 賠償金・・・イギリスに400万両、フランスに200万両の賠償金を支払うこと。
北京条約
北京条約では、天津条約が批准された上、新たな内容が追加された。さらにイギリス・フランスに有利な内容になっている。
- 賠償金の増額・・・賠償金を800万両に増額すること。
- 天津の開港・・・天津条約で定めた10港の他に、天津を開港すること。
- 九龍半島南部の割譲・・・イギリスに九龍半島南部(九龍司地方)を割譲すること。
- 中国人の海外渡航許可・・・中国人労働者を移民として労働に従事させることを可能にした。アメリカ合衆国において奴隷制度が廃止されたので、中国人労働者が黒人奴隷に代わる労働力として使役されることになった。
- 開港場以外でのキリスト教の布教許可・・・中国国内におけるキリスト教の布教を許可し、それを明文化すること。
アロー戦争が与えた日本への影響
アロー戦争の影響は日本にも及んでいる。
日本では1853年にペリーが来航し、1854年に日米和親条約を結んで下田と函館を開国した。イギリス、ロシアとも条約を結んだが、まだ貿易は行われておらず、1856年アメリカの領事ハリスは、江戸幕府に対して通商条約の締結を要求するが進展しないでいた。
ハリスは、アロー戦争の内容を幕府に説明し、通商条約を結ばないとイギリスやフランスによって侵略されると圧力をかけたのだった。
その結果、1858年江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、神奈川、長崎、兵庫、新潟を開港したのである。同様の条約が、イギリス、フランス、オランダ、ロシアとの間にも結ばれ、本格的な貿易が開始された。この条約は、治外法権や関税を日本だけで決められないといった不平等条約であった。
上海を訪問した高杉晋作も大きな影響を受けていた。
1862年、徳川幕府の千歳丸に乗って上海を訪問した高杉晋作は、南京条約から20年たった様子を見て「英仏の属地」のようだと言っている。また、清朝の軍備がイギリス・フランスに劣ることも指摘し、いずれ日本も同じような状態に陥るのではないかと危惧している。アロー戦争によって属国化した上海を見たことが、その後の晋作の活動に大きな影響を与えたと考えられる。
まとめ
アロー戦争(アロー号事件)は第2次アヘン戦争とも呼ばれる。アヘン戦争後のイギリスの不満を、武力で解決したと考えられるだろう。イギリス・フランスなど諸外国による侵略戦争であったとも言えるだろう。これにより結ばれた天津条約・北京条約は、不平等条約であり、日本でも同様の不平等条約が結ばれることになったのだった。