アテネとスパルタの違いとは?2大ポリスの人種や場所、戦争の歴史を解説

アテネとスパルタの違いとは?2大ポリスの人種や場所、戦争の歴史を解説

アテネとスパルタは古代ギリシャを代表する2大ポリスとして有名だ。本記事では、住民の人種・ポリスの場所・政治形態といった、アテネとペルシアの違いと、2国がギリシャの覇権をめぐって争った戦争の歴史について説明する。

都市国家「アテネ」と「スパルタ」の違い

古代のギリシャにおいては、都市の一つ一つが国家としての政治体系を持っており、都市国家(ポリス)と呼ばれていた。ポリスとは、元は砦や城砦を意味する言葉だ。由来と言われる「アクロポリス」は、ポリスの中心にある小高い丘のことで、宗教的にも重要な意味を持ち、神殿などが建設されていた。

アテネでは、都市の中心であるアクロポリスの丘に有名なパルテノン神殿が建設されている。つまり、アクロポリス(小高い丘)を中心に、宗教や政治、民族を同じくする人々が集まった、その集合体がポリスなのだ。

各地にポリスが存在したが、中でも有名なのがアテネとスパルタとなっており、古代ギリシャの2大ポリスといえば、アテネとスパルタのことを指している。

この二つのポリスが、時に外敵と争うために手を組み、時にギリシャの覇権を求めて互いに争った。他の都市国家も多かれ少なかれ巻き込まれて、アテネとスパルタの覇権争いに参加しているものの、アテネとスパルタの覇権争いこそが、古代ギリシャの都市国家群の歴史そのものだと言ってもいいだろう。

2大都市国家として並び称されるアテネとスパルタだが、人種・宗教・社会制度・教育など、様々な点に違いがある。しかし、共通の敵であるペルシア帝国のギリシャ侵攻には、手を組んで対抗したこともあった。

なお、古代ギリシャのアテネについて記す場合は、後世との違いを明確にするために「アテナイ」と表記することが多いが、本記事では「アテネ」で統一している。

アテネ

アテネの特徴をまとめたので参考にして欲しい。

場所
世界地図で見ると、現在のヨーロッパの南東の端にギリシャのあるバルカン半島が地中海に突き出している。バルカン半島の南東部が、アテネの存在するアッティカ地方(半島)だ。アテネは西サロニコス湾に面しており、外港のペイライエウスを所有している。アテネでは、その立地を生かして古代から海運業が盛んで、オリーブ油を輸出し、穀物の輸入を行っていたが、ラウリオン銀山の開発で財力を得て強力なポリスへと成長する。
人種
アテネの住人は、イオニア人と呼ばれる人種で、紀元前2000年ごろにバルカン半島を南下してきてアッティカ地方に定住した。アテネは、イオニア人の代表的な都市国家の一つである。
政治体系
アテネの政治体系は、軍事民主制と呼ばれている。アテネ成立直後は王政で、後に寡頭制(貴族制ともいう)になり、軍事民主制へと行きついた。アテネの市民は奴隷や農奴より上の立場であったが、財産を持たない貧しい市民も多く、借金をして奴隷にされてしまう者もいたという。市民は財力に応じて4つの身分に分けられ、身分によって参加できる投票が決められていた。財産の多さが政治への発言力を決定していたのだ。
軍事
アテネは海洋国家であり、海洋交易によって栄えてきた。そのため、古来より海軍の重要性に着目していた。ペルシア戦争の勝敗を決めたとされるサラミスの海戦では、陸軍での抵抗を捨て、海軍に集中することで勝利している。ペルシア戦争後は、さらに海洋国家として発展していった。

スパルタ

スパルタの特徴をまとめたので参考にして欲しい。

場所
世界地図で見ると、現在のヨーロッパの南東の端にギリシャのあるバルカン半島が地中海に突き出している。バルカン半島の南西部にあるペロポネソス半島の南部にスパルタが存在する。スパルタが支配する地域は当時のポリスの中では広く、奪った土地は市民に公平に分配されていた。農地はヘイロタイと呼ばれる奴隷によって耕されたが、度々反乱がおこったため、厳しい規律によって統制された軍国主義国家として成長していった。
人種
スパルタの市民はドーリア人と呼ばれる人種で、紀元前10世紀頃にギリシャ北方からペロポネソス半島に侵攻してきた。先住していたミュケナイ時代のアカイア人を征服して奴隷(ヘイロタイ)にしている。
政治体系
スパルタは、2人の世襲制の王が並立している。つまり、「スパルタ王」はいつの時代でも2人いるのだ。2つの王家は「アギス家」と「エウリュポン家」で、テルモピレーの戦いで有名なレオニダス1世はアギス家の王である。ただし、その権限は軍の指揮権などに限定されていて、政治的には長老会と呼ばれる機関が最高意思決定機関であった。
軍事
スパルタは強力な陸軍を持っている。スパルタ市民は7歳で親元を離れ共同生活を開始し、12歳から本格的な肉体的訓練とスパルタ市民としての考え方を教育された。そして、忍耐や規律を身に着けた上で、18歳で成人する。この過酷な教育制度は、「スパルタ教育」と呼ばれ現代でも通用する言葉となっている。ヘイロタイの反乱に対抗するために市民を軍隊化したのだが、結果としてスパルタ軍は古代ギリシャで最強とされ、スパルタの支配地域には城壁などは作られていなかった。

アテネとスパルタの共通点

あらゆる点において違っているアテネとスパルタだが、互いに手を取って共通の敵と戦うこともあった。それがペルシア戦争だ。

この戦争は紀元前499年に始まったが、当時のアケメネス朝ペルシアは最盛期を迎えていて、ギリシャの全てのポリスを合わせたよりも強大な国家だった。アテネとスパルタの2大ポリスは協力してこの強敵と対峙する。

以下、ペルシア戦争中の主な戦いを時系列で紹介するので、参考にして欲しい。

紀元前490年
マラトンの戦い
ペルシア戦争は全体的にペルシアが優勢だったが、アッティカ半島東岸のマラトンで行われた戦いでは、ギリシャ連合軍(アテネ軍)が勝利した。スパルタ軍も援軍として駆けつけていて、その逸話がマラソンの語源になっている。この戦いでは、後にギリシャ軍(アテネ・スパルタ)の代名詞とさえ言われるファランクス(槍を装備した重装歩兵)が活躍する。
紀元前480年
テルモピレーの戦い
ペルシア軍を食い止めるために、連合軍は山間の地であるテルモピレーに布陣する。しかし、迂回路の存在を知り、連合軍は撤退。スパルタ軍300人だけでペルシア軍を足止めした。スパルタ軍は見事に足止めに成功し、ペルシア軍によって全軍が追撃されるのを防いだ。

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テルモピレーの戦いは、「スリー・ハンドレッド」というタイトルで映画にもなっているので、興味のある方はぜひ見て欲しい。
紀元前480年
サラミスの海戦
陸戦では勝てないと判断したアテネは、都市を放棄して海上決戦に挑んだ。船舶の数は圧倒的に不利だったが、船の質や戦術で補い、アテネ・ポリス連合軍が勝利する。この敗戦でペルシア帝国は勢いを失くした。戦後に、アテネが主導してデロス同盟を結成したが、自国の利益のために資金を流用するなどして周囲のポリスの反感をかうようになっていく。
紀元前479年
プラタイアの戦い
サラミスの海戦で勢いを失くしたが、ペルシア軍はいまだ強大だった。アテネ軍は再び陸路から迫るペルシアに対し、都市を放棄。アテネは蹂躙されたが、スパルタ軍と合流したアテネ軍はペルシア軍の撃退に成功する。この後、アテネとスパルタの関係は悪化していき、対立するようになる。

ペルシア戦争後のアテネとスパルタの関係

ペルシア戦争で決定的な戦勝を挙げたサラミスの海戦では、海洋国家であるアテネが活躍し、戦後の主導権を握った。そして、アテネの主導の下、デロス同盟が結成される。デロス同盟にはほとんどのポリスが半強制的に参加させられ、資金がアテネの予算に流用されるなどしたため、次第にアテネに対する反感が強くなっていく。逆にスパルタは、内陸の農業国であったためにペルシア戦争で利益らしい利益を得られなかった。

ペロポネソス戦争の開戦

デロス同盟を締結したアテネに対し、スパルタはペロポネソス同盟の盟主になる。デロス同盟とペロポネソス同盟は対立し、ペロポネソス戦争へと発展していった。

アテネを中心とするデロス同盟と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟とで行われたこの戦争は、古代ギリシャ全体を巻き込む大戦になった。紀元前404年にアテネが無条件降伏したことで終戦し、スパルタの勝利に終わった。

コリント戦争によるスパルタの衰退

スパルタはペロポネソス戦争に勝利したが、敗戦国に貢納を要求したり、敵対した国家に攻め込んだりしたために求心力を失っていった。

そして、ペルシア帝国の謀略によりコリントス戦争が始まる。アテネを中心とした各ポリスがスパルタに抵抗したこの戦争で、陸戦ではスパルタが勝利したが、海戦ではアテネが勢力を取り戻していった。

その後、スパルタとテーバイの対立からボイオティア戦争が起こり、紀元前371年のレウクトラの戦いの敗戦によって、スパルタはギリシャの覇権を失った。

まとめ

本記事では、住民の人種・ポリスの場所・政治形態といった、アテネとペルシアの違いと、2国がギリシャの覇権をめぐって争った戦争の歴史について説明した。

アテネとスパルタは、古代ギリシャを代表する有名なポリスだ。この2国について学ぶことは、古代ギリシャについて学ぶことに等しいだろう。

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