バルトロメウ・ディアスとは?喜望峰へ到達したポルトガルの航海士を解説

バルトロメウ・ディアスとは?喜望峰へ到達したポルトガルの航海士を解説

バルトロメウ・ディアスは、喜望峰を発見し、ポルトガルとアジアとの貿易ルート開拓に大きく貢献した人物だ。今回は15世紀後半に活躍した航海士、バルトロメウ・ディアスについて解説する。ポルトガルの時代背景についても紹介するので、参考にしてほしい。

バルトロメウ・ディアスとは?わかりやすく解説

バルトロメウ・ディアスは、15世紀後半に名を馳せたポルトガルの航海士だ。英語名はバーソロミュー・ディアズとなっている。代々、王室に仕える冒険航海者の家系に生まれ、バルトロメウ自身も王宮で騎士をしながら軍艦「サン=クリストヴァン」の航海長を兼任した。

当時のポルトガル国王・ジョアン2世の命を受け、アジアとの貿易ルートを探るために航海に出たバルトロメウ・ディアスは、1488年にヨーロッパ人として初めて、アフリカ南端の嵐の岬(後に喜望峰と改名)に到達している。

バルトロメウ・ディアスとは?喜望峰へ到達したポルトガルの航海士を解説toku168

ちなみに喜望峰は、当時のポルトガル国王・ジョアン2世がバルトロメウ・ディアスの発見した「嵐の岬」を改名した名称だ。

喜望峰への到達によりインド航路への開拓に大きく貢献

バルトロメウ・ディアスの喜望峰到達により、インド交易のための航路開拓が確実になった。喜望峰到達を果たした彼の功績は、母国ポルトガルのみならず、他のヨーロッパ諸国にも多大なる影響を与え、大航海時代の幕開けとなるのだ。

なお、その後の1497年にヴァスコ・ダ・ガマのインド航海の際、バルトロメウ・ディアスは水先案内人として途中まで同行している。

バルトロメウ・ディアスの航海

1486年10月、ポルトガル国王・ジョアン2世は、アジアとの貿易ルートを確立させるため、アフリカ周回航海の隊長にバルトロメウ・ディアスを任命。約1年後の1487年8月、バルトロメウ・ディアスは故郷ポルトガルのリスボンから、3隻の船を率いて出航した。

ディアスは初めに、中部アフリカを蛇行するコンゴ川の河口を目指し、そこから海岸線沿いに南下を続けることになる。その後、現在のナミビア共和国中部に位置する湾岸都市、ウォルビスベイに入港している。

翌1488年、バルトロメウ・ディアスは南アフリカ北西の港ポート・ノロス近くで大嵐に遭い、13日間にわたり漂流してしまう。この漂流によりバルトロメウ・ディアスの船団は、気付かないうちにずいぶん南のほうまで流されてしまうことになるのだ。

嵐が去った後、バルトロメウ・ディアスの船団は、再び海岸沿いに戻るために陸地を探したが、いくら陸地を探そうと東に進もうとも見つからなかったとされている。

陸地がまったく見つからなかったため、バルトロメウ・ディアスは船団の進路を北上させることにした。するとなぜか西側の方角に陸地を発見する。つまり、バルトロメウ・ディアスの船団は嵐の影響によって、いつのまにかアフリカ大陸の南端を通り過ぎてしまっていたのだ。

なお、バルトロメウ・ディアスがヨーロッパ人として初めて、アフリカ南端到達を果たし、インド洋の入り口に位置するモッセル湾に上陸したのは、1488年2月3日のことである。

喜望峰の発見

モッセル湾に上陸したのち、バルトロメウ・ディアス率いる3隻の船は、アフリカ南端のアガラス岬から南岸のグレート・フィッシュ川に沿って航海を続けている。

そのまま進めばインド上陸の夢が現実のものとなるとディアスは確信したが、乗組員たちの不平不満を無視できず、船を引き返すことにしたのだった。そして1488年5月、この航海の帰路で発見したのが嵐の岬(喜望峰)である。

バルトロメウ・ディアスがリスボンを出港してから帰港するまで、実に16カ月と17日間の歳月を経たとされている。

なぜポルトガルはインドを求めたのか?

ここで、ポルトガルが「なぜインドを求めたのか?」ということを簡単に説明しておく。

当時のヨーロッパでは、肉や魚の腐敗を防ぎ殺菌作用をもたらしてくれる香辛料が重宝されていた背景がある。しかしヨーロッパ人の必需品である香辛料はヨーロッパには存在しておらず、アジアからの東方貿易で輸入するしかなかった。なかでも胡椒は人気が高く、その価値は銀と同等だったのだ。

香辛料貿易はその当時、世界で最も儲かる貿易と言われていた。しかし当時、巨大な権力を持っていたオスマン帝国が地中海東岸を占領したことで東方貿易が阻害され、香辛料の価格はさらに高騰した。

そこでポルトガルは、オスマン帝国を介さずとも、直接アジアとの香辛料貿易を行えるよう、インドへの航路開拓を目指したのである。

バルトロメウ・ディアスとは?喜望峰へ到達したポルトガルの航海士を解説toku168

当時のヨーロッパでは、香辛料と銀が交換されていたほど、香辛料は高価なものだった。

ポルトガルのインド航路開拓

オスマン帝国の圧力下にありながら、ポルトガルはヨーロッパ圏で最も早くインド航路開拓に乗り出した国になるわけだが、その理由はポルトガルの体制が中央政権だったことが大きいだろう。

というのも、ポルトガルはかつてイスラム支配化におかれていた歴史からレコンキスタ(国土回復運動)によって中央集権化された王国だ。

船を出すためには造船や食糧、人員確保など莫大な費用が必要になるわけだが、ポルトガルは国王の権力による強力なバックアップのもと、潤沢な貿易財源を確保することができたのだ。

さらに宋代の中国で実用化され、ヨーロッパに伝わった羅針盤と造船技術の発達によって遠洋航海が可能になった。

また、王室に在りながら探検事業家として活躍した航海王子・エンリケの功績も大きく、多くの航海士がポルトガルから世界進出を果たすことになる。バルトロメウ・ディアスの父であるディニス・ディアスもその一人だ。

1445年、ディニス・ディアスがヴェルデ岬へ到達。その後、1488年に息子のバルトロメウ・ディアスが嵐の岬(喜望峰)へ到達することになる。

なお、バルトロメウ・ディアスが嵐の岬(喜望峰)に到達した10年後の1498年には、ヴァスコ・ダ・ガマがカリカットへ到達している。こうしてポルトガルは世界地図に新しいエリアを付け加えながら、香辛料の潤沢なアジアへと貿易経路をつないでいったのだ。

まとめ

バルトロメウ・ディアスはヨーロッパ人で初めてアフリカ南端の地に上陸し、嵐の岬(後の喜望峰)を発見した航海士だ。

バルトロメウ・ディアスの喜望峰到達がきっかけでインド航路への道筋が見えたことから、ヨーロッパの国々が香辛料を求めて船を並べる大航海時代が始まったのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です