硫黄島の戦い~「勝者なき戦い」と言われる終戦間近の激戦

硫黄島の戦い~「勝者なき戦い」と言われる終戦間近の激戦

硫黄島からの手紙でも知られ、終戦間近の太平洋戦争における最も過酷な激戦となったのが硫黄島の戦いである。この戦いの最高司令官はアメリカ留学経験があり「知米派」の栗林忠道陸軍中将だ。地下陣地の建設やゲリラ戦を繰り広げた硫黄島の戦いをわかりやすく解説していく。

硫黄島の戦いとは?わかりやすく解説

硫黄島の戦いとは、1945年(昭和20年)2月19日から同年3月26日までの36日間、硫黄島において日本軍とアメリカ軍によって行われた戦いだ。この戦いは、終戦間近のフィリピンの戦いや沖縄の上陸戦とともに太平洋戦争屈指の激戦とされている。

当時、アメリカ軍は硫黄島での戦いを「5日で攻略できる」と予想していたが、従来の日本軍による水際迎撃作戦は縮小され、硫黄島の固い地盤を掘り上げての地下壕からの攻防や夜襲攻撃などにより苦戦を強いられることとなる。

海からも空からも援護のない孤立無援の状態で激戦を強いられた日本軍の戦いは、百戦錬磨のアメリカ軍も心が折れると言われたほどだった。

硫黄島の戦いは太平洋戦争末期においての上陸戦で、アメリカ軍攻略部隊の人的損害実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、最激戦地として挙げられているのだ。

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硫黄島は、東京都硫黄島村に属する小笠原諸島の南端近くに位置し、東京都中心部から約1200キロの硫黄ガスが噴き出す火山島だ。明治24年に日本の正式な領土となっており、面積は沖縄の100分の1くらいのごくごく小さな島である。そんな硫黄島での戦いを指揮したのが第109師団長に任命された栗林忠道陸軍中将だ。当初は、小笠原方面の防衛が任務であったが、大本営直轄の小笠原兵団として編成され、硫黄島の団長指揮官として海軍部隊を指揮下におき、硫黄島に着任することになる。

太平洋戦争終戦間近の激戦

1941年に日本が真珠湾攻撃を仕掛けことにより始まった太平洋戦争だが、日本は太平洋の島々のほとんどをアメリカに占領されており、1945年8月の終戦まで秒読みの段階まできていた。そんな中で開戦されたのが硫黄島の戦いだ。

硫黄島の戦いでの日本軍の戦法は、持久戦・ゲリラ戦を方針とするものだった。まず、硫黄島の天然の洞窟を利用して1000を超える壕(ごう)を整備。そして、約18キロメートルものトンネルを作ることにより、平坦な地が拡がる硫黄島にてアメリカ兵を内陸部に誘い込み、攻撃するというものだ。

また、栗原中将は日本軍特有の「バンザイ突撃」(死ぬことを覚悟して天皇陛下万歳と言っての突撃)や、どんなに劣勢になっても自分の割り当てられた陣地を放棄して撤退するといったことを禁止した。

「バンザイ突撃」によって一度に大ダメージを与えるよりも可能な限り兵士が生き残り戦いを長期化させること、硫黄島は小さな島であり後ろに下がってもすぐに追い詰められてしまうことから、前への突撃も後ろへの後退も禁止したのだ。

この戦略により、自軍に大きな損害を出しながらも、敵対するアメリカ軍にも大きな打撃を与えることに成功。アメリカ軍の中では両国のあまりの被害の大きさから「勝者なき戦い」とも呼ばれる激戦となったのだ。

なお、この戦略(バンザイ突撃の禁止や徹底した自分の陣地の放棄)は、指揮官であった栗林中将の独断と言われている。

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硫黄島の戦いは、一刻でも長く硫黄島を守ることが目的となっていた。そのため、投降しようとした日本兵に対しては射殺の命令が下されていたと言われており、この戦いで投降した日本兵はほとんどいなかった。結果的に栗林中将自決後も日本兵は投降を行わず陣地に立てこもって応戦したのだ。

硫黄島の戦いの戦死者

硫黄島の戦いは、戦傷者の数が日本軍よりもアメリカ軍が上回るという戦闘であり、その過酷さを表すものでもある。この戦いに参加した日本軍の兵力は、栗林中将以下、約2万3000人となり、一方のアメリカ軍の兵力はリッチモンド・タナー中将以下、約11万人とされている。

戦いに生じた人的損害は、日本軍が戦死者約1万8000人、生き残りの捕虜約1000人に対しアメリカ軍は戦死者約7000人、戦傷者約2万2000人となっている。

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硫黄島に建設された飛行場の滑走路下には、いまだ見つからない1万人以上の遺骨が残存しているとの説がある。本調査が行われていないため、真偽は定かではないが、1日も早く戦死者の遺骨が見つかることを願う。

硫黄島の戦いの背景

硫黄島の戦いの背景には、日本軍の敗北が続いた「ミッドウェー海戦」、「ソロモン海戦」、「ニューギニア島の戦い」、その後の「マリアナ沖海戦」の敗戦が大きく関わっている。

マリアナ沖海戦の敗北

マリアナ諸島は、日本にとって「絶対国防圏」の内側の島になる。マリアナ沖海戦の敗北によって、日本はアメリカ軍に絶対国防圏の内側に拠点を作られてしまうことになるのだ。

それまで、アメリカ軍からの本土攻撃は空母艦から爆撃機を飛ばしての爆撃に至っていたが、空母艦から飛ばすことができるのは大型の爆撃機ではなかったため、日本本土に大きな打撃を与えることができなかったのである。

しかし、絶対国防圏の内側に拠点ができれば、島から大型の爆撃機を飛ばして日本全土を爆撃できるということになる。つまり、マリアナ諸島は日本にとって絶対に死守しなくてはいけない島だった。この敗戦によって、日本はいよいよ追い込まれることになった。

硫黄島は日本本土を結ぶ重要拠点へ

マリアナ沖海戦の敗北によって絶対国防圏の内側をアメリカ軍に占領された日本だが、マリアナ諸島と日本本土の間には小さなしまがあった。それが硫黄島だ。開戦当初はそれほど重要視されていなかった硫黄島だが、マリアナ沖海戦の敗北によって、マリアナ諸島と日本本土を結ぶ重要拠点へと変わることになる。

硫黄島には小笠原諸島で唯一飛行場ができる平地があったため、その飛行場から戦闘機を飛ばして大型爆撃機「B‐29」を攻撃したり、上空を「B‐29」が通過したことを日本本土へ知らせたりなど、本土防衛の重要な役割を果たすことができる地となるのである。

一方でアメリカ軍側としては、マリアナ諸島から飛び立った爆撃機はすぐに日本の支配下の海の上を飛ぶことになることから気の抜けない状況であった。硫黄島を盤石にすることで、大量の爆撃機と物質を集めることにより全力で日本本土に攻撃を仕掛けることができる。

また、空母艦では飛ばせることができない、最新のエンジンを積み燃料タンクも豊富に搭載できる「B‐29」を出撃させることもできるのだ。このようなことから、アメリカ軍にとっても硫黄島は重要な島となったのだ。

硫黄島の戦いの経緯

硫黄島の戦いの経緯として、日本国土上陸作戦に向けて太平洋を進撃するアメリカ軍がサイパンのつぎの攻略対象として硫黄島に目標を定めていたことが挙げられる。

アメリカ軍海軍艦艇120隻、陸上兵力11万からなる攻略部隊が硫黄島近海へ集結するも、アメリカ軍が当初予想したよりも長い期間に渡って激闘が繰り広げられたことも覚えておくと理解しやすい。

硫黄島の戦いの時系列

硫黄島の戦いの経緯をタイムラインで表している。時系列で戦いの流れを追うことでわかりやすくなるので参考にしてほしい。

1944年(昭和19年)5月
栗田中将が第109師団長に親補
新たに編成された第109師団長に栗林中将が親補(天皇により新任される官職)される。6月には硫黄島に着任し、地下坑道を島全体に張り巡らせて要塞化に着手。
1944年6月
アメリカ軍がサイパン島を占領
アメリカ軍が大挙してサイパン島に侵攻したことで、大本営はサイパン島の放棄を決定。海上ではマリアナ沖海戦が発生するもマリアナ諸島の大半はアメリカ軍が占領することとなる。
1944年7月
栗田中将が小笠原兵団長を兼任
栗林中将は大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任。海軍部隊を支配下におき、小笠原方面陸海最高指揮官となる。
1945年(昭和20年)2月16日
アメリカ軍が硫黄島に上陸
アメリカ軍部隊が硫黄島への最初の上陸を敢行。日本軍による坑道からの一斉攻撃で大打撃を与え、21日にはアメリカ軍の死傷者が約5000人を超える。
1945年2月26日
アメリカ軍が元山飛行場を占領
硫黄島の元山飛行場がアメリカ軍によって占領される。アメリカ軍陣地に対する日本軍の夜襲攻撃を最後に組織攻撃が終わる。
1945年3月7日
栗田中将の最後の戦訓電報
栗林中将は最後の戦訓電報(戦闘状況を大本営に報告する一連の電報)である膽参電第三五一号を発する。
1945年3月14日
軍旗を奉焼
栗林中将を支えてきた小笠原兵団基幹部隊の歩兵第145連隊長・池田大佐が軍旗を奉焼(焼却処分)する。3月16日には栗田中将が大本営に訣別の電報を打ち、翌日17日に大本営は硫黄島守備隊の玉砕を発表。

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日本軍にとって、軍旗は天皇から授かった特別なものだった。軍旗を与えられるということは正式な部隊として認められたということになり、逆に軍旗がなければ正式な部隊としては認められていなかったのだ。つまり、軍旗を奉焼するということは部隊としての敗北であり、死を意味しているのだ。
1945年3月26日
栗林中将自決
栗林中将率いる約400人の将兵は最後の総攻撃を敢行。総攻撃後に栗林中将は自決。日本軍として硫黄島での組織的戦闘は終結となる。

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栗林中将は、1944年6月の硫黄島の着任から総攻撃後の自決に至るまでの間、一度も本土へは戻らなかった。また、総攻撃の際、階級章や所持品など個人を特定できるものを外したとされる。その遺体は今もなお発見されていない。

硫黄島の戦いの教訓

硫黄島の戦いは日本軍、アメリカ軍ともに大きな悲劇を与え日本軍もさることながらアメリカにも建国以来の大打撃を与えた戦いであった。栗林中将の作戦は合理的な戦術であったものの、火山島での地下壕発掘は将兵にとって塗炭の苦しみを強いるものであったことだろう。

また、持久戦により時間を持ちこたえさせ、機会をみて反撃を試みるという上層部の意向に対し、栗林中将は前にも進まず後にも引かず持ち場を守り、あくまでも時間稼ぎのために戦うという割り切った作戦をとった。思惑通りに戦闘の長期化には成功しているが、この戦略が硫黄島の戦いが泥沼化した要因だろう。

しかし、勝てないとわかっている戦いに栗林中将をはじめ家族を思う将兵たちの覚悟の抵抗は約1ヶ月も続き、本土攻撃を延ばすためのものであったことには間違いない。

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硫黄島の戦いからみる、戦争が勝ち負けを問わず人間にもたらす惨さや悲惨さを後世に残さなくてならない。戦争から学べる教訓は多くあり、この歴史を心に刻み現代に活かそう。
  • 有事の時にこそ指導者の資質が露呈する
  • 時には潔く負けを認めることも必要
  • 玉砕覚悟で硫黄島を死守した戦果への謝意

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