レイテ沖海戦とは、第二次世界大戦中にフィリピンの周辺で起こった日本とアメリカ及びオーストラリア連合国軍との海戦の総称。この人類史上最大の艦隊戦により、日本海軍は歴史に終止符を打つ事となる。無敵の不沈艦と言われた武蔵はなぜ沈んだのか、また、なぜ栗田艦隊が謎の反転を行ったのかなどをわかりやすく解説していく。
レイテ沖海戦とは?わかりやすく解説
レイテ沖海戦とは、太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月23~25日にフィリピン周辺海域において行われた日本VSアメリカ・オーストラリア連合国軍との海戦だ。シブヤン海海戦・スリガオ海峡海戦・エンガノ岬沖海戦・サマール島沖海戦の4つを中心とした海戦の総称でもある。
同年の10月18日に、多くの米輸送船団がフィリピン諸島であるルソン島(日本の勢力下にあった)のレイテ湾に上陸することが予想されたため、大本営(日清戦争から太平洋戦争までの戦時期間中に設置された日本軍)は決戦計画である「捷(しょう)1号作戦」の発動を決定。 これに基づき日本とアメリカ・オーストラリア連合国軍との大海戦が行われた。
日本海軍の歴史に終止符を打った戦い
レイテ沖海戦は、日本、及びアメリカ・オーストラリア連合国軍の海軍の戦艦が多数参加しており、「史上最大の海戦」と呼ばれている。
連合国軍の戦艦戦力は、航空母艦17隻、護衛母艦18隻、戦艦12隻、その他、重巡洋艦を含む2641隻に対して、日本軍の艦隊は大和級と言われる「富士」、8トン級の「斑鳩」を含む航空母艦4隻、「武蔵」・「扶桑」をはじめとする戦艦9隻、「鳥海」を含む重巡艦13隻、軽巡艦などを合わせて40隻、航空機600機と、戦力面では圧倒的に連合国軍側が勝っていた。
この海戦で、日本軍は連合国軍側に航空母艦1隻、護衛母艦2隻、駆逐艦2隻の損失を与えるが、日本軍側は4隻の航空母艦がすべて全滅。不沈艦と言われた「武蔵」を含む戦艦3隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦9隻が沈没したことにより、約7500人もの戦死者を出すこととなる。
レイテ沖海戦は、事実上日本海軍の壊滅をもたらす戦いとなり、日本海軍はこの戦いでその長い歴史に終止符を打つことになる。
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敗戦の原因とも言われる栗田司令官の「謎の反転」
連合国軍がレイテ湾に侵入の情報をうけ、日本軍は「捷(しょう)1号作戦」を発動。栗田健男中将、西村祥冶中将、志摩清英中将、小沢治三郎中将ら4人が艦隊の指揮を執り進軍した。
栗田艦隊がレイテ湾突入するにあたり、日本軍の囮作戦「陽動」により、連合国軍艦隊が北方にいるとの情報をうけるが、このとき栗田中将は、レイテ湾突入を継続して輸送船団撃滅を行うか、または反転して北上しハルゼー大佐率いる連合国軍艦隊と決戦を行うかの歴史的重要な判断を担うことになる。
しかし、敵の主力艦隊がいないレイテ湾を目前にして、なぜか栗田中将は北上を開始する。そして、目標としていたハルゼー艦隊も発見することができずに北方へ引き返してしまう。
この謎の反転は「栗田リターン」とも呼ばれ、栗田司令官は結果的に連合国軍の補給艦、撃沈作戦の目的を行えず、任務遂行を途中で打ち切ってしまった形となる。一説ではレイテ沖海戦敗因とも言われているものだ。
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レイテ沖海戦の背景
レイテ沖海戦では、マリアナ沖海戦の大敗や台湾沖航空戦の誤報などの背景が挙げられる。
また、フィリピンの防衛戦によって、日本軍は多くの将兵の戦死者を出すなど苦戦を強いられる結果となり、日本軍上層部による艦隊決戦主義がレイテ沖海戦の勝敗に少なからずも関わっていたと言えるだろう。
マリアナ沖海戦の大敗と台湾沖航空戦の誤報
1944年(昭和19年)6月19日に、グアム、サイパンをはじめとするマリアナ諸島沖合にて日本とアメリカの機動部隊が激突したのがマリアナ沖海戦だ。マリアナ諸島がアメリカ軍に奪われることは日本国土にも、戦火をさらされることになることから本土防衛による最終ラインとなっていた。しかし、この戦いのわずか2日で将来を担う若者たち3000人以上が戦死したとされ、日本軍は惨敗の結果となる。
敗戦が続く日本軍ではあったが、同年の10月、台湾沖航空戦において、日本航空部隊によりアメリカの航空母艦やその他戦艦など多数に打撃を与えたとの大戦果が報じられる。ところがこの戦果は、攻撃時が夜間であったことや搭乗員の経験の不足などから誤認された戦果であり、結果的に「幻の大戦果」となってしまう。
そして、大本営海軍部はこの事実を事前に知りながら、陸軍には伝えず当初の作戦を変更しフィリピン・レイテ島に兵力を送り込むに至ったるのだ。
フィリピンの防衛
大戦果を信じた大本営は、フィリピン防衛を担当していた第14方面軍司令官である山下奉文大将の反対を押し切り、急遽これまでの作戦を変更して レイテ島にフィリピン防衛のため陸軍も参加させた。
このことにより、ルソン島侵略作戦に配置されるはずだった多くの陸軍はレイテ島に送られ、日本連合軍は苦戦を強いられることとになる。ルソン島侵略作戦にも遅れをとり、約2ヶ月の激闘となったレイテ島内での戦闘では日本軍が敗北。多くの将兵が戦死、または餓死したとされれいる。
上層部の艦隊決戦主義
艦隊決戦主義とは、艦隊同士の消耗戦となることを想定内において、戦艦などの大型艦とそれによって可能となる大型艦載砲の破壊力を重要とみなす思想。その戦略は、可能な限り多くの戦力(艦艇)を集結させて艦隊を構成し、敵の海軍を壊滅へと追い込むものだ。
栗田中将も必然的に、上層部によるこの艦隊決戦主義と大型艦巨砲主義(大口径の主砲と厚い装甲をもつ大型戦艦が必要とする考え)による思想を結びつけ、北方におけるハルゼー主力艦隊を叩こうとしたことが覗える。
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レイテ沖海戦の経緯
レイテ沖海戦の経緯は、日本軍の「捷(しょう)1号作戦」の概要を理解しておくとわかりやすい。この作戦では、新旧の日本軍の戦艦が参戦していた。そのため、新旧で巡航スピードに差があったのだ。
そこで、日本軍は巡航スピードの速さで艦隊を分け、パラワン島の北を通る「北ルート(遠回り)」、パワワン島の南を通る「南ルート」の2つの航路でレイテ湾を目指すことに決定。
最新鋭の戦艦を含む巡航スピードの速い艦隊を栗田中将が指揮、旧戦艦を含む巡航スピードの遅い艦隊を西村中将、志摩中将が指揮することになった。また、日本本土から「おとり」として小沢中将が指揮する艦隊を出し、アメリカ軍を引きつける一手を加えることになる。
- 北ルート(遠回り):栗田艦隊
- 南ルート:西村艦隊、志摩艦隊
- おとり(本土から出航):小沢艦隊
この作戦を踏まえたうえでレイテ沖海戦の経緯を見ていきたい。
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レイテ沖海戦の教訓
日本海軍の歴史に終止符を打ったレイテ沖海戦。この戦いの根底にあるのは情報入手の軽視、陸海軍または海軍が、ばらばらに動くことによる統一性のなさが挙げられるのではないだろうか。
また、栗田中将の「謎の反転」は、レイテ沖海戦において致命的なミスであるとされている。しかし、当時この決断に疑問を抱いた現場の参謀や部下が指摘しなかったことも問題だろう。
戦争から学べる教訓は多くあるため、単なる歴史としてではなく、現代に活かしていきたい。
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- 当事者間での情報の共有の徹底
- トラブルの時こそ連携を図る
- 間違いを指摘できる組織