ニコポリスの戦いとは、14世紀に起きたオスマン帝国対ヨーロッパ連合軍との戦いである。この戦いに勝利したオスマン帝国は、イスラム世界での名声を手に入れた。本記事では、世界史に大きな影響を与えたニコポリスの戦いの背景や経過、戦いの後の悲惨な結末、覇権争いに勝ったオスマン帝国のその後までを詳しく説明していく。
ニコポリスの戦いとは?わかりやすく解説
ニコポリスの戦いとは、1396年9月25日にニコポリス(現在のブルガリア北部)で起こった、オスマン帝国対バルカン諸民族、及びこれを支援するフランス、ドイツ(ニコポリス十字軍)との戦いである。
オスマン帝国を率いたのはバヤジットで、ニコポリス十字軍を率いたのはハンガリー王ジギスムントだった。ヨーロッパにとっては大規模な十字軍遠征となったこの戦いは、オスマン帝国の圧勝で終わり、結果的にオスマン帝国の名声を大きく高めるだけとなった。
ニコポリスの場所
戦いの舞台となったニコポリスは、地図で言うとヨーロッパを広く流れるドナウ川の黒海側で、ドナウ川水源のドイツから見ると、最後の4分の1あたりにある場所だ。
現代の地図で見ると、ブルガリアとルーマニアの国境に沿って流れるドナウ川の右岸にあり、その対岸はルーマニアという国境の街となる。そのため、ニコポリスはヨーロッパに進出しようとするオスマン帝国にとって、格好の足がかりとなる場所にあったのである。
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ニコポリスの戦いの背景
なぜニコポリスの戦いが起きた背景を理解するためには、オスマン帝国について知っておく必要があるだろう。
1299年、トルコ系のテュルク民族であるオスマン1世によって建てられた国が後のオスマン帝国となる。オスマン帝国は、トルコ人だけの国では決してなく、多民族国家であった。
帝国が拡大する中で、アラブ人やスラブ人、エジプト人、アルメニア人、クルド人など多種多様な民族を擁する多民族国家となっていったのである。
14世紀中頃からバルカンに進出したオスマン帝国は、1389年にはコソヴォの戦いでセルビアに勝利し、バルト地域のほとんどを支配下に治めた。オスマン帝国の勢力は、ハンガリー国境まで拡大し、ハンガリー王国は東欧における2宗教(キリスト教とイスラム教)の境界線になったのだ。
1390年からはオスマン帝国によるコンスタンティノープルの包囲が始まり、皇帝マヌエル2世が求めた救援に、イングランドとの休戦で余裕ができていたフランスやドイツが応じた。
こうしてニコポリスの戦いは十字軍遠征時代が終わった後の、最初で最後の大規模な十字軍遠征となったのである。
オスマン帝国によるニコポリスの占領
当時のブルガリアの首都であり、天然の要塞に守られたニコポリスは、オスマン帝国にとってヨーロッパ進出の窓口ともいうべき重要な場所だ。
1393年にニコポリスを占領したオスマン帝国は、そこからさらに中央ヨーロッパや東ヨーロッパに攻撃を仕掛けようとしていたのである。ニコポリスを占領したオスマン帝国は補給も充分で、守りも充分だった。
十字軍はニコポリスのオスマン帝国軍を兵糧責めにしてきたが、ニコポリス知事ダジャン・ベイは、バヤジットが救援に来なければならなくなろうと確信しており、長期間の包囲戦に耐える用意をしていたのである。
そしてコンスタンティノープルの包囲に従事していたバヤジットは、軍をまとめてニコポリスに進軍したのだ。
打倒オスマン帝国を目的としたニコポリス十字軍の結成
ブルガリアの首都であったニコポリスがオスマン帝国に占領され、キリスト教とイスラム教の境界線がハンガリー国境にまで拡がったことから、ヨーロッパ諸国は危機感を強めオスマン帝国を押し戻そうとした。
そしてハンガリー王のジギスムントが指揮するヨーロッパ連合(ニコポリス十字軍)を結成したのである。
ニコポリスの戦いの経緯
オスマン帝国対ニコポリス十字軍の戦となったニコポリスの戦いの兵力を見てみよう。
まずニコポリス十字軍だが、フランスからは約2,000人の騎士と従者、そして最前の義勇兵と傭兵から6,000人、それに弓隊と歩兵が付き従ったため、総勢10,000人ほどであった。
そこにハンガリーのジギスムントから、6,000人〜8,000人の兵が提供されたのである。ハンガリー使節団の呼びかけに応じて、神聖ローマ帝国地域のドイツ諸侯(6,000人ほど)も個人的に参加したとされている。
また、フランス王国が十字軍として布告を出たことで、ポーランド、ボヘミア、ナバラ、スペインも個人的に参加したのである。
ワラキア軍はおよそ1万人、オランダ、ボヘミア、スペイン、イタリア、ポーランド、ブルガリア、スコットランド、スイスの陸上軍に、ヴェネツィア、ジェノヴァと聖ヨハネ騎士団の海軍の支援が15000人ほどであった。
諸説あるが、ニコポリス十字軍は総勢で47,000人〜49,000人ほどだったのではないかと言われている。
対するオスマン帝国軍は当初20,000人〜25,000人と見積もられていたが、上昇が続き60,000人に達した。なお、この中には臣従したセルビアの重装騎兵15,000人が含まれている。
以下、ニコポリスの戦いの経緯を紹介するので、参考にしてほしい。
十字軍によるニコポリスの包囲
ニコポリスに到着した十字軍は、オスマン帝国軍の出撃を阻止するために都市周辺に展開し、海軍は川を封鎖した。
攻城機を持っていない十字軍だったが、楽観的だったブシコー元帥は「梯子は容易に制作され、勇敢な男たちが使うのであれば投石機よりも手っ取り早い」と言い油断したとされている。
だが天然の要塞にあたる地形や、攻城機の不足によって、十字軍は兵力によるニコポリス攻略が困難となっていた。
包囲から2週間が過ぎた頃、十字軍兵士は退屈し、博打や宴会に明け暮れてしまっていた。その乱れ方は歩哨を送らなかったほどと言われている。
こうして十字軍が足止めされている間に、オスマン帝国軍の前衛部隊がニコポリスへ到着。この際、小さな戦闘が起きたが、この戦いはフランス軍が撃破することになる。
十字軍の内部分裂
オスマン帝国軍の前衛部隊を確認した十字軍は、本隊との決戦に備えて十字軍全体の軍議を開いている。
ハンガリー王ジギスムントは、この軍議で「先鋒をゲリラ戦に長けているワラキア農民兵とし、オスマン帝国軍の戦力を削いだ後に十字軍で攻撃を仕掛ける」という戦法を提案したが、この戦法に対して、フランス軍が猛烈に反対することになる。
農民の後ろに隠れて弱ったオスマン帝国を攻撃するという戦い方は、騎士のプライドが許さなかったのだ。加えて、オスマン帝国軍の前衛部隊を撃破したことによる慢心もあったとされている。
こうして、1396年9月25日、十字軍は前衛をフランス軍、後衛をジギスムント率いる連合軍とした布陣で、オスマン帝国軍本隊との戦に臨むことになったのだ。
このとき、ジギスムントの斥候がオスマン帝国軍を確認したため、ジギスムントはフランス軍を率いるウー伯に突撃を待つように命じたが、ウー伯は待機を拒み、オスマン帝国軍への突撃を決断している。
つまり、ニコポリスの戦いは開戦とほぼ同時に、血気にはやるフランス騎士と総指揮ジギスムントの間で対立が起きた格好となったのだ。しかし、支援してもらう立場のジギスムントは引くしかなかったとされている。
このジギスムントの統率能力の不足が、十字軍の敗北に繋がっていくのだ。
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フランス軍の突撃と十字軍の敗北
ニコポリスの戦いは、フランス軍の突撃を合図に開戦となった。最初は優勢だったフランス軍だが、オスマン帝国が本陣を構えていた丘の麓には、騎馬の進撃を阻む馬防柵や弓隊が配置されており、騎馬隊は下馬を余儀なくされ、次第に劣勢となっていくのだ。
騎馬を放棄したフランス騎士は、丘を上り続け、坂のてっぺんの平坦地に到着するも、そこにはオスマン軍の精鋭が待ち構えており、「神は偉大なり」と感情を昂らせていた。
こうして、フランス軍は壊滅。フランス騎士は坂を下り、逃げ出す者も多数いたとされている。
また、フランス騎士の中には激しく抵抗した者もいたが、指揮官が捕虜として捕えられたのを見ると降伏。フランス軍が降伏したのち、乗り手を失った馬は解き放たれた。
なお、馬が放たれたのを見て、トランシルバニア人とワラキア人は、この戦いは敗北したと結論づけ、戦場から退却したのだろうと推測されている。
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ニコポリスの戦いの結果
フランス軍の敗北と、他の軍の撤退、そして総指揮のジギスムントは逃走したため、ニコポリスの戦いはオスマン帝国の圧勝で終わっている。
バヤジットは、身代金の取れる人質以外の者で、20歳以下の者は人質か奴隷にし、残りの数千にも及ぶ捕虜を、3人か4人の集団に分けて手をくくり、裸で行進させた。
また、捕虜に処刑の命令が下ると、刑吏はそれぞれの集団を順に殺して行ったとされている。その方法は斬首または四肢切断という残虐なものだったそうだ。
ニコポリスの戦いで大勝したバヤジットには、スルタン(アラビア語で権力(者)権威(者)を表す)の称号が与えられ、1453年にオスマン帝国は、とうとうコンスタンティノープルを征服して首都としたのである。
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まとめ
ニコポリスの戦いは、十字軍対オスマン帝国の戦いとされているが、イスラム教徒対キリスト教徒の戦いでもあった。ブルガリアを陥落させ、ニコポリスを占拠したオスマン帝国だが、
ハンガリー国境まで勢力を拡げたオスマン帝国を押し戻そうと、ヨーロッパ連合(ニコポリス十字軍)が作られたのだ。
だが血気盛んで浅はかなフランス騎士の驕りにより大敗を喫してしまった。ニコポリス戦いだけが原因というわけではないが、宗教による対立は根深く、現代でも後を引いているのかもしれない。