サラミスの海戦~ペルシア戦争の勝者を決定づけたアテネ海軍対ペルシア海軍の戦い

サラミスの海戦~ペルシア戦争の勝者を決定づけたアテネ海軍対ペルシア海軍の戦い

サラミスの海戦は、紀元前480年にアテネ・ポリス連合艦隊とペルシア海軍とで行われた戦いだ。この戦いでアテネ・ポリス連合軍が勝利したことで、ペルシア戦争は膠着状態になり、終結へと向かい始める。ここでは、サラミスの海戦の背景や経緯、その後への影響についてわかりやすく説明する。

サラミスの海戦とは?わかりやすく解説

ギリシャのサラミス島近くで紀元前480年9月に行われたサラミスの海戦は、アケメネス朝ペルシアの海軍とアテネ(アテナイ)を中心としたポリス(都市国家)連合艦隊との争いだ。ペルシア戦争の勝者を決定づけた戦いと言われており、アテネ・ポリス連合艦隊の勝利に終わった。

艦船の数ではペルシア軍が圧倒的に有利だったが、海軍を主に輸送の手段として考えていたペルシア軍に対し、アテネ軍は戦闘用の艦船を増強して、ペルシア軍艦隊を敗走させることに成功する。サラミスの海戦の後、ペルシアの国王クセルクセス1世は戦意を喪失し、ペルシア戦争は膠着状態に陥っていく。 

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サラミスの海戦については、ギリシャの歴史家ヘロドトスの著書「歴史」に詳しく記載されている。

サラミスの海戦が起こった背景

サラミスの海戦はペルシア戦争中のひとつの戦いだ。そのため、サラミスの海戦の背景を知るためには、ペルシア戦争の経緯を理解しておく必要がある。ここでは、サラミスの海戦に至るまでのペルシア戦争の経緯を説明するので、参考にしてほしい。

イオニアの反乱

ペルシア戦争の原因は、紀元前499年に起こったイオニアの反乱の際に、アテネとエレトリアが反乱に介入し、反乱軍を支援してペルシアをけん制したことだ。イオニアの反乱が失敗した後、ペルシアは、介入は内政干渉だとしてギリシャ侵攻の格好の口実として利用する。

イオニアの反乱が鎮圧されてからは、アテネでは徐々に対ペルシア強硬派が台頭していった。

アケメネス朝ペルシアがギリシャに侵攻を開始

紀元前492年に、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世がギリシャに対して侵攻を開始する。イオニアの反乱に加担したアテネとエリトリアに対する報復という名目だった。

海軍と陸軍で進行するも、海軍は暴風に遭い大損害、陸軍も迎撃されて被害を受け、遠征軍は撤退した。開戦初期の7遠征軍は小規模で、威力偵察でしかなかったともいわれている。

紀元前491年にはペルシア帝国からギリシャの各ポリスに服従を求める使者が送られ、エーゲ海島嶼部のポリスはほとんどがそれを受け入れた。他のポリスも親ペルシアと反ペルシア派で内紛が起きるなど、対応は混乱する。スパルタでは2人の王による内紛となり、アテネでも反ペルシア派と親ペルシア派が議会で反目していた。

マラトンの戦い

紀元前491年、ペルシア軍は要求をのまない各ポリスを攻略するために陸海軍を派遣し、イオニアの反乱を支援したエレトリアに攻め込んだ。エレトリアはアテネに援軍を要請するが、エレトリアは親ペルシア派と反ペルシア派との対立で混乱しており、アテネ軍は撤退する。

エレトリアは、親ペルシア派が城門を開いたことで陥落した。ペルシア軍はエレトリアを制圧してアッティカ東岸のマラトンに上陸するが、アテネとプラタイアの連合軍に敗れて撤退することになる。

なお、アテネ軍は、ファランクスと呼ばれる槍を持った重装歩兵を編成し、ペルシア軍を打ち破った。マラトンの戦いの勝利により、アテネの親ペルシア派は追放され、アテネはペルシアの侵攻に対して一貫して反抗の姿勢をとるようになったのだ。

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マラトンの戦いは、マラソンの語源になったと言われている。

テルモピレーの戦い

紀元前481年、ダレイオス1世の後を継いだクセルクセス1世が再びギリシャへ遠征を開始。ギリシャの各ポリスに対して降伏の使者を送るが、アテネやスパルタには使者を出さず、初めから攻め滅ぼすつもりだった。

対して、アテネの政治家テミストクレスは反ペルシア派のポリスを集めて会議を開催。ペルシアに対抗するために、ポリス間の紛争を即時停止するなどして、ギリシャ連合を結成した。

ただし、ペルシアについたポリスも多かったので、ギリシャが一枚岩になったというわけではなかった。紀元前480年に再度会議を開き、テルモピレー(テルモピュライ)の山間の山地で陸軍を、アルテミシオンで海軍を迎え撃つ計画を立てる。

しかし、テルモピレーには迂回路が存在したため、連合軍は撤退し、スパルタ軍300人だけで数十万ともいわれるペルシア軍を足止めした。これがテルモピレーの戦いだ。スパルタ軍は足止めに成功するが、迂回路の存在が知られてしまい、善戦むなしくテルモピレーは突破され、アルテミシオンの海軍も撤退する。

アテネを放棄

陸路で迫ってくるペルシア軍を前にして、アテネの指揮官テミストクレスはアテネを放棄する決定を下す。元々テミストクレスは陸戦ではペルシア軍には勝てないと考えていて、海上戦闘用の三段櫂船を増産していた。

アテネの住民は避難するが、避難のための費用は自分で負担しなければならなかったので、財産を持たない無産市民は三段櫂船の漕ぎ手としてサラミスの海戦に参加することになった。アテネは占領されたが、アテネ軍は奪還しようとはせず、ポリス連合軍はサラミス島に戦力を集め、紀元前480年9月にサラミスの海戦が始まる。

サラミスの海戦の経過

サラミスの海戦に参加した戦力は、アテネ・ポリス連合軍が三段櫂船380隻(うち、アテネは180隻)とその他数隻、ペルシア軍は三段櫂船684隻とその他の船が数百隻だといわれている。

戦力ではアテネ側が圧倒的に不利であった。戦闘が開始された状況には諸説あるが、その中に一人の女性指揮官がポリス連合軍の前に立って全軍を鼓舞し、戦闘が始まったという説がある。

また、戦闘の具体的な内容についても諸説あり、全軍が衝突したのか、アテネ連合軍側が包囲網の突破に成功したのかはわからないが、最終的な損害はアテネ連合軍が40隻ほどだったのに対してペルシア軍は200隻以上だったと言われ、アテネ連合軍の圧倒的勝利となった。

なお、勝利の理由としては、アテネの指揮官テミストクレスが風を待って仕掛けたからという説と、アテネ側の船が戦闘用の船だったのに対し、ペルシア側は輸送用の船だったため、高波で動きが取れず、アテネ側の戦間突破戦術に対抗できなかったという説がある。

アテネ側の船は敵船への体当たりによる直接打撃を行うために喫水が深く、ペルシア側の船は敵船への兵の揚陸のために重心が高かった。そのため、高波に弱くなってしまったのだ。さらに戦闘海域は広くなく、大艦隊を展開するのに不向きだったとも考えられている。

サラミスの海戦で活躍した三段櫂船と無産市民

サラミスの海戦では、両軍の主戦力として三段櫂船が活躍した。三段櫂船とは、船底を三段にすることで櫂(オール)の数を増やした船のことだ。

しかし、同じ三段櫂船でも、海上戦闘を想定していたアテネ軍に対し、ペルシア軍は海上輸送を想定していたため、機動性に難があった。そのため、サラミスの海戦では、ペルシア軍の船は高波で身動きが取れなくなったと言われている。

また、三段櫂船の漕ぎ手としては無産市民が活躍している。無産市民は、市民権はあるが財産を持たない貧しい市民のことだ。

アテネがペルシア軍に占領された際、市民は避難したが、避難費用は自己負担だったので、無産市民はアテネから避難できなかった。そのため、サラミスの海戦では三段櫂船の漕ぎ手として乗船した。結果、無産市民の発言力が増大し、アテネはさらに民主的になっていく。

サラミスの海戦の結果とその後

サラミスの海戦が、アテネ・ポリス連合軍の勝利に終わったことで、その後の歴史に与えた影響について説明する。

ペルシア軍の衰退が加速

サラミスの海戦で敗戦したことにより、ペルシア軍の進軍は止まり、ペルシア戦争は膠着状態に陥った。ペルシア軍はいまだ強大であったが、ペルシア王クセルクセス1世の戦意は明らかに衰えており、ペルシア軍は次第に苦しい状況に追い込まれたのだ。

こうして、サラミスの海戦はペルシア戦争の決定的な転機になった。アテネの側は、サラミスの海戦の勝利により、海洋国家として成長していくことになる。

テミストクレス将軍の陶片追放

サラミスの海戦の指揮官として英雄となったテミストクレスだが、戦後は独善的な行動が目立ち、アテネから陶片追放されてペルシアに逃亡する。陶片追放とは、アテネの市民による投票で、僭主となりそうな人物を追放する制度のことだ。

テミストクレスの追放後、市民の発言権が増加し、アテネは民主的な都市としてさらに発展していく。紀元前444年~430年頃には、ペリクレス将軍のもとでアテネは全盛期を迎えることになる。

まとめ

サラミスの海戦は、ペルシア海軍とアテネを中心としたポリス連合海軍との戦いだ。サラミスの海戦でポリス連合が勝利したため、ペルシアの侵攻が膠着状態になった。つまり、サラミスの海戦はペルシア戦争の勝者を決めた戦いと言えるだろう。 また、サラミスの海戦の勝利は、その後のアテネの発展を導いた非常に重要な戦いとも言えるだろう。

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