テルモピュライの戦いは、レオニダス王率いるスパルタの戦士300人がペルシアの大部隊に挑んだ戦いだ。映画「300 スリーハンドレッド」の題材となったことでも有名だろう。本記事では、テルモピュライの戦いについてわかりやすく解説していく。
テルモピュライの戦い(テルモピレーの戦い)とは?わかりやすく解説
テルモピュライの戦いとは、前480年、ペルシア軍がテルモピュライでスパルタ軍を全滅させた戦いだ。ギリシアポリスとアケメネス朝ペルシア帝国の戦いをペルシア戦争と言い、前500年から約50年間にわたっている。
テルモピュライの戦いは、ペルシア戦争中の一幕であり、ペルシア軍3度目の遠征でのことである。ギリシアのアッティカ地方へ入る直前の難所テルモピュライで、スパルタ軍300人は、ペルシア軍20万人を相手に玉砕したのだった。
なお、テルモピュライの戦いはテルモピレーの戦いとも呼ばれるが、今回はテルモピュライの戦いと呼ぶことにする。
スパルタ軍を率いたレオニダス王とは
レオニダス王は、軍事国家であるスパルタの王の家系に生まれた3男であった。51歳で王位を継承し、テルモピュライの戦い当時60歳だった。
普通のスパルタの少年と同じように兵士としての教育を受けたスパルタの王は、レオニダス王だけだったようだ。父や兄が急逝したため、王位を継ぐことになった。
第3次ペルシア戦争に出陣する前、レオニダス王が聖地デルポイにおいて神託を求めると、「王が死ぬか、国が滅びるか」との答えだった。神託を受けたレオニダス王は、跡継ぎがいる男から選りすぐりの300人を前線へ連れて行ったとされている。
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テルモピュライの戦いの流れ
前480年、ペルシア王クセルクセスはアテネとスパルタの征服を目的に、ギリシア本土への侵攻を開始した。
ペルシアの侵攻に対して、スパルタ軍は狭く険しい峠道のテルモピュライで、スパルタ軍をはじめとするギリシアポリス軍が、ペルシア軍の南下を阻止する作戦を立てたのだった。
しかし間道の存在を知ったペルシア軍は、スパルタ軍を挟み撃ちにし、レオニダス率いるスパルタ軍300人はペルシア軍20万人との激闘の末、全滅したのである。
以下、テルモピュライの戦いの経緯を詳しく解説するので、参考にしてほしい。
ペルシア軍による侵攻
ペルシア帝国は前6世紀末にオリエント全土を統一し、さらに西へ圧力をかけていた。ペルシア軍は前492年、前490年にギリシアポリスへ侵攻したが、失敗に終わっている(第1次・第2次ペルシア戦争)。
前480年に始まった第3次ペルシア戦争のアテネ・スパルタを主としたギリシアポリス連合との戦いは、ペルシア王クセルクセスにとって、父王ダレイオス1世の雪辱を果たす戦いでもあったのだ。
20万人のペルシア軍を従えたクセルクセスは、ダーダネルス海峡を渡り、ペルシア属国のマケドニアからギリシアへ入った。そこからアテネへ進むには、テルモピュライの峠を超えなければならなかったが、テルモピュライは山と海に囲まれた狭い街道であった。
こうして、アテネを目指すペルシ軍と、それを迎え撃つギリシア軍がテルモピュライの地で戦うことになるのだ。
テルモピュライでの迎撃
ギリシアポリスのひとつであるスパルタは、レオニダス王を含む300人の精鋭部隊がテルモピュライの戦いに参戦している。
テルモピュライは最も狭いところで15m程度の幅であったため、ペルシア軍は騎馬隊を使えずにいた。テルモピュライの峠道の曲がり角に潜むスパルタの兵士は、次々とペルシア軍の兵士を殺した。この段階でペルシア軍は大量の戦死者(2万人とも言われている)を出した。
翌日ペルシア軍は、王の親衛隊である「不死身の男たち」の1万人を突撃させるが、次々と倒れることになり、ギリシア側は2度も続けて迎撃に成功したのだ。
なお、2度の撃退を成功させたのは、ギリシア軍が狭い地形を利用したファランクスを形成して戦ったことが大きいとされている。
ファランクス陣形とは、兵士が左手に大きな丸盾を持って自分の左側にいる味方を守りながら、右側にいる味方に自分を守ってもらう陣形である。ギリシア軍の長槍は2.5m以上もあり、ペルシア軍より長く、接近戦に有利だったのだ。
またこの時スパルタ兵がとった戦術は、集団でわざと敵に背中を見せて引き下がり、敵が追いついてきたら向き直って攻撃するというものであった。
ちなみに、ヘロドトスの著書「歴史」によれば、両軍の戦力は以下のようになっている。
ギリシア陸戦部隊 | 兵数(人) |
スパルタ重装歩兵 | 300 |
テゲア兵 | 500 |
マンティネイア兵 | 500 |
オルコメノス兵 | 120 |
アルカディア各都市の兵 | 1,000 |
コリントス兵 | 400 |
プレイウス兵 | 200 |
ミュケナイ兵 | 80 |
テスピアイ兵 | 700 |
テバイ兵 | 400 |
ポキス兵 | 1,000 |
合計 | 5,200 |
ペルシア陸戦部隊 | 兵数(人) |
歩兵 | 1,700,000 |
騎兵 | 80,000 |
アラビア人の駱駝部隊・リビアの戦車部隊 | 300,000 |
合計 | 2,100,000 |
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スパルタ兵300人対ペルシア軍20万人
ギリシア軍はペルシア軍をテルモピュライで足止めできたように見えた。しかし地元の者からの密告により、ペルシア軍は間道から攻撃を仕掛けられることを知ったのだった。
この間道よりペルシア軍はギリシア軍の背後にまわり、挟み撃ちにできるのだ。ギリシア軍は、戦うか、撤退するかで意見が分かれ、残ったのはスパルタ兵300人、テバイ兵400人、テスピアイ兵700人だけであった。
ギリシア軍の背後にまわったペルシア王クセルクセスの使節は投降を促したが、レオニダス王の答えは「モローン・ラベ(Molon Labe/この首欲しくば来りて取れ)」と一言だけだったとされている。
こうしてペルシア軍20万人の総攻撃がはじまった。間道を通ってテルモピュライに近づいたペルシア軍の別部隊は、テバイ400人の兵士を集中攻撃し、テバイ兵はペルシアに降伏してしまったのだ。
そこで最後まで戦い抜いたのがレオニダス王率いる、スパルタ兵300人だったのである。
レオニダス王とスパルタ兵の壮絶な最期
スパルタ兵300人と、ペルシア軍20万人の戦いは、スパルタ兵の最後の一人が亡くなるまで続けられた。
この日スパルタ兵とペルシア軍の戦いは、道幅の広い場所で展開されている。ペルシア軍は接近戦を避けて離れたところから豪雨のように矢を浴びせ続ける作戦をとっていた。
しかしここでもまた、スパルタ兵はペルシア軍を押し返した。レオニダス王に矢が何本も突き刺さり倒れた後は、王を巡って激闘が繰り広げられ、スパルタ兵は倒れたレオニダス王を守ってペルシア軍を4回撃退したのだ
その後間道から迂回してきた別部隊が合流すると、スパルタ・テスピアイ両軍は後退せざるを得なかったが、城壁の背後の丘に陣を構えて、最後まで抵抗したとされている。
ペルシア軍は勝利したものの、死者はこの日だけで2万人とされている。こうしてテルモピュライの戦いは幕を閉じたのだ。
テルモピュライの戦いの影響
テルモピュライの戦いは、ギリシア側に海上戦を決意させた戦いでもある。というのは、テルモピュライの戦いと同日、ペルシア海軍対ギリシア海軍の戦いが行われており、互角に戦うことができたからだ(アルテミシオンの海戦)。
ギリシア側は、陸のテルモピュライと海のアルテミシオンでペルシア軍を引き止めて、撤退させる思惑であったが、テルモピュライの戦いで敗戦したことにより、作戦の変更を余儀なくされた。テルモピュライの陥落によりサラミス島へ撤退することになったのである。
またギリシア側、特にスパルタの住民は、レオニダス王とスパルタ兵300人の最期を知って、ペルシア軍への反発を強めたのだ。
こうした作戦の変更により、テルモピュライの戦いからわずか1か月後、サラミスの海戦ではアテネ海軍が大勝利をおさめ、クセルクセスは撤退。そして翌年の前479年、ギリシア本土にとどまっていたマルドニウス率いるペルシア軍と戦ったプラタイアの戦いでは、スパルタの将軍パウサニウスとスパルタ兵が中心となってペルシア軍を撃退したのだった。
サラミスの海戦、プラタイアの戦いの勝利は、テルモピュライで戦った300人のスパルタ兵とレオニダス王の「勝つか、死か」の覚悟がギリシア軍を奮い立たせた結果とも言えるだろう。
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まとめ
ペルシア戦争は、ペルシア軍の圧倒的な量に立ち向かった、ギリシアポリス連合軍の戦いであった。その最たるものがテルモピュライの戦いと言えるだろう。
テルモピュライの戦いで玉砕したレオニダス王とスパルタ兵の様子は語り継がれ、その後の戦いにおいても、将軍や兵士を発奮させ、ペルシア戦争をギリシアポリスの勝利に導いたのだ。