占城稲は、インドシナ半島東部が原産の稲の品種のひとつである。日本では縄文時代の終わり頃に稲が伝来してから米を主食としているが、その米がすべて現在我々の食べているような粘り気のある米だったのではなかった。本記事では、占城稲と呼ばれる稲の歴史や特徴を解説する。
占城稲とは
占城稲は「せんじょうとう」と読み、現在のベトナムにあたるインドシナ半島東部の占城(チャンパー)原産の稲の品種のひとつである。10世紀頃にベトナム中部でチャンパー(中国では占城と表記した)というチャム人の国が栄えていたので、占城稲と呼ばれるようになった。チャンパ米とも呼ばれる。
占城稲の系統の一部が日本に渡来し、日本では大唐米(だいとうまい)、太米(たいまい)、秈(とうぼし)などと呼ばれた。
占城稲の特徴
占城稲は、現在の日本で育てられている稲とは異なった特長がある。ここでは占城稲について紹介するので、参考にしてほしい。
インディカ型の稲の一種
世界の稲・米はインディカ型とジャポニカ型に大別され、占城稲はインディカ型に属する。インディカ型は淡泊な米で、炊いてご飯になると粘り気がなく、消化されやすい。現在日本で食べられている米は、ジャポニカ型である。
早生種
占城稲は早生(わせ)の品種で、早生の稲は成熟が早いため、収穫も早く行うことができる。
イネには早生の他に、収穫の遅い晩稲(おくて)早生と晩稲の中間の中生(なかて)がある。南方の諸国においては、稲作は田植えをしない直播きで、二期作、三期作が行われるのでたくさん米がとれ、値段も安かった。
占城稲の形・色・味について
占城稲の形は小粒で、色は赤色、味は良くなかった。ご飯になると2倍に増えるので、農民の食事には適しているが、腹持ちが悪くすぐにお腹が減った。消化の良い品種で、江戸時代には病人用の食事にもされた。
占城稲の藁について
占城稲の藁は粗くてかたく、縄を綯う(なう)より、筵(むしろ)のように編んで小屋の屋根や小舟のおおいに使われた。日本のものに比べて粘り気がなく、縄として使うには長持ちしなかったようだ。
占城稲の出現はいつ?
占城稲は、早くから福建地方で栽培されていたとされている。10世紀末の中国、北宋の第3代皇帝真宗(しんそう)の時代に(在位997〜1022)江蘇や浙江で干ばつが続いたため、占城稲が導入された。
占城稲は水不足への耐性があり早生種であることから、従来の稲と組み合わせた二期作が可能になった。そのため長江下流の江南地方では生産力が向上し、豊かになっていったのである。
占城稲が日本に伝わった時期
日本に占城稲が伝わった時期についてだが、占城稲などのイネの一群にあたる大唐米という名称は鎌倉時代末期の14世紀初頭の資料「教王護国寺文書」に見られる。
占城稲という名称は室町時代の「梅花無尽蔵」に初めて現れるが、ここで使われた「占城之早稲」という言葉は中国の漢詩からの引用であると考えられるため、文献上で見られる占城稲の名称は、江戸時代の元禄期に書かれた「農業全書」となる。
おそらく占城稲は、12世紀前後には日本へ渡来しており、その後、近世にかけて何度か渡来しているものと思われる。
日本では、占城稲などの大唐米は九州など西日本中心に多く栽培されていたようだ。干ばつに強く、陸田に植えることもできたので、あまり環境の良くない田でも収穫できた。
占城稲が日本に伝来したのは、鎌倉時代末期とされているが、江戸時代の元禄期としている説ものもあるので、覚えておこう。
占城稲は戦国時代に重宝されていた
戦国時代における織田信長以前の時代の武士の多くは、平時には農業を営んでいた。そのため戦は秋の収穫後からはじまり、春の農繁期までには終える必要があった。
また、敵の領国内の稲を刈って食料を調達することも行われていた。これらのことから、少しでも早く稲を刈り取ることによって敵より早く出陣でき、そして敵から稲を守るために早生の占城稲などの大唐米が使われたと考えられる。
織田信長以降は兵農分離が進み、大がかりで長期間に及ぶ戦いが可能になった。豊臣秀吉が賤ケ岳の戦いの行軍で、村々から米を買い上げていることからわかるように、農村においては米を大量生産し備蓄することによって金銭を得ることができるようになったのである。
占城稲などの大唐米は、新規耕作開拓に携わる人々の貴重な食料となった。畑に直接蒔くことができ生育も早いので、便利で都合が良かったのである。
ちなみに、占城稲などの大唐米は年貢として納めることの出来る地域と、認められない地域があった。
主に北陸地方・信越地方・近畿北部の一部の地域では、普通の稲を植えた田んぼの周囲に占城稲などの大唐米を植え、普通の稲が収穫される前の端境期に農民が食べる自給用の米であったとされている。
しかし、中国地方・四国地方・九州などでは、占城稲などの大唐米は田んぼの全体に植えられ、年貢米としても納められていた。
占城稲の価格は普通米の1割5分から2割程度の安い値段であったが、品質が劣ることから考えても特に低いものではなかったのだろう。
占城稲は今も使われているか
占城稲などの大唐米は、明治以降に徹底駆除され現在は使われていない。明治時代前半の「稲作改良法」には、米の質が悪く、収穫量が多くても販売できないと記されており、占城稲などの大唐米は評判が悪い品種だとされていたのである。
味は淡泊で、食感はモソモソとしていたようだ。もともと占城稲などの大唐米は食味が悪かったのだが、湿気に変質しにくく乾きに強いという、耐湿性・耐乾性に優れていたために広く作付けされていた。
灌漑の水が乏しい田んぼや、水はけが悪い田んぼ、新田などにおいて安定した収穫が見込め、早生種で収穫が早く、炊けば米が倍になるという利点があったのである。
しかし、江戸時代にはすでに占城稲などの大唐米は、上方よりも江戸において不人気だったようだ。事実、幕府蔵奉行が大唐米を受け取らないという書状が残っている。
また、特に陸軍における米へのこだわりは強く、量の確保だけでなく品質の上でも良質な白米が求められたために、評判の悪い占城稲などの大唐米は廃れたのである。
まとめ
占城稲について解説してきた。占城稲はインディカ型の稲の一種で、現在の日本で作付けされているジャポニカ型の稲とは様々な点で異なる。
占城稲は耐湿性・耐乾性に優れ、成熟が早く収穫も早かったので、各地で栽培され、貴重な食料としての役割を果たしたが、食味の点でかなり劣ったため明治時代に駆除され、現在では作付けされることはなくなったのだ。