世界史で出てくる「憤死」とは?有名な事件や人物を紹介

世界史で出てくる「憤死」とは?有名な事件や人物を紹介

世界史において「憤死(ふんし)」と記される人物は少なくない。死亡ではなく、わざわざ憤死となっているのには、何か意味があるのだろうか。本記事では歴史上、憤死とされた有名な事件や人物を紹介する。

世界史で出てくる「憤死(ふんし)」の意味

「憤死」とは一体どのような死に方だろうか。辞書で憤死を引くと、2つの意味があった。

  1. 激しい怒りのうちに死ぬこと
  2. 野球で、ランナーが惜しいところでアウトになること

世界史に出てくる「憤死」は、激しい怒りが原因で死ぬことに当たる。もともと「憤」には怒りや腹を立てる意味があり、憤死は「怒りが原因となって死に至る、もしくは怒りながら死ぬこと、死ぬときに怒りを抱えていたこと」と考えられる。

怒りで死ぬことはありえる?

現実に怒りが原因で死ぬことはあるのだろうか。

アメリカの医学雑誌に掲載された論文には、怒りが突然の死を引き起こす可能性があるとされたものがある。それは、怒りと死の関係を調査した「心室頻拍・心室細動という命に関わる危険な心臓の不整脈」である。

この研究は、心臓に植込み型除細動器の手術を受けた人を対象に行われた。被験者にストレスを与え、怒りを誘発すると健康な人に比べて致死性の不整脈になりやすいという結果を得たようだ。

また、怒りをためこみやすい人、怒りっぽい人は血圧が上昇しやすいと言われていて、不整脈や心筋梗塞といった突然死につながるリスクが高いようだ。

もともと動脈硬化や脳動脈瘤の傾向を持つ人は、怒りからくる血圧の上昇によって脳卒中を引き起こすリスクもあるということだ。

憤死で知られる世界史の事件

憤死だと伝えられている世界史の事件を紹介しよう。

三国志

事件ではないが、三国志では憤死がかなり多いので、まずこちらから見てみる。

三国志で憤死したとして有名な人物の1人に、周瑜(しゅうゆ)が挙げられる。周瑜は呉の孫権に仕え、赤壁(せきへき)の戦いで勝利を収めたことでも知られている。

周瑜は魏の曹操と対抗し戦うことを主張していた。赤壁の戦いでは、呉の孫権と蜀の劉備の連合軍が、魏の曹操の水軍を破って三国時代の幕開けとなったのである。

三国志演義における周瑜は感情的で心が狭い人物とされている。赤壁の戦いでは、周瑜は諸葛亮(しょかつりょう)の才能を恐れて何度も殺害を企てた。荊州の戦いにおいては、周瑜は何度も諸葛亮に負け、その度に周瑜の古傷が破れて倒れてしまうのだった。

そして最後は、諸葛亮からの手紙を読んで「瑜を生まれさせた以上、どうして亮も生まれさせたのか」と叫び、怒りのあまり憤死したと描かれている。

また、曹真(そうしん)も三国志演義では憤死として描かれている人物だ。魏の曹真は、曹操の甥にあたる。曹真は将軍として活躍し、呉の孫権と戦ったり蜀の諸葛亮の侵攻を防いだりして、魏の勢力を維持するのに貢献した。

しかし三国志演義においては、曹真が諸葛亮の侵攻を防いだ功績を司馬懿(しばい)の手柄にされ、その後諸葛亮と対戦しても曹真は連戦連敗だった。そして最後は、諸葛亮から届いた書状を読み憤死したと描かれている。書状には曹真をののしる言葉が書かれていた。

その他に、以下のような武将も憤死したとされている。

  • 陸遜(りくそん)
  • 于禁(うきん)
  • 朱儁(しゅしゅん)
  • 呂強(りょきょう)
  • 王朗(おうろう)
  • 辛評(しんぴょう)など

ちなみに、三国志には正史の「三国志」と正史を元にした「三国志演義」がある。
正史の三国志は魏を正統な王朝とした歴史書で、三国志演義は蜀を正統な王朝とした小説と位置づけられているため、人物の描写などに違いがある。

カノッサの屈辱

1077年にカノッサの屈辱と呼ばれる事件が起こり、1081年に教皇グレゴリウス7世が憤死したとされている。

カノッサの屈辱とは、神聖ローマ帝国の皇帝ハインリヒ4世が、カノッサの城門前でローマ教皇グレオリウス7世に破門の取り消しを願った事件である。

ハインリヒ4世とグレゴリウス7世は、叙任権をめぐり争っていた。叙任権とはローマ教会の聖職者を決める権利のことで、叙任権を持てば自分に有利になる人物を教会に送り込むことができ、教会全体を支配することができるのだ。

教会の腐敗を刷新しようとしていたグレゴリウス7世は、ハインリヒ4世が持っていた叙任権を教皇に移し、さらに皇帝の破門と皇帝権をはく奪したのだった。窮地に立たされたハインリヒ4世は、カノッサの城門前で3日間もの間破門の取り消しを願い、ようやく聞き入れられたのがカノッサの屈辱と呼ばれる事件である。

ハインリヒ4世にとってみれば、破門は取り消されても叙任権を失い、皇帝の権威も地に落ちてしまったのだ。そのため1081年にハインリヒ4世は、ローマ教会を武力で包囲し、グレゴリウス7世を捕らえ、新たに教皇を立てたのである。これによりグレゴリウス7世は憤死したのだった。

アナーニ事件

1303年に起きたアナーニ事件でも、フランス王がローマ教皇に退位を迫り、ローマ教皇ボニファティウス8世が憤死している。

フランス王フィリップ4世とローマ教皇ボニファティウス8世は、教会領への課税をめぐり対立していた。ローマへの献金で苦しんでいたフランス国民は国王を支持し、国王は教皇へ強く反発するようになっていた。

1303年、反教皇派のギョーム・ド・ノガレはアナーニに滞在していた教皇を急襲し退位を迫るが、教皇が従わなかったため、殴って教皇の三重冠と祭服を奪い監禁したのである。3日後教皇は救助されてローマへ戻ったが、1か月後に憤死したのだった。

日本史でも憤死は確認されている

世界史で度々使われる憤死だが、日本の歴史でも憤死したとされている人物がいるので紹介する。

早良親王(さわらしんのう)

早良親王は光仁天皇の皇子、桓武天皇の弟で、桓武天皇の即位により皇太弟となった。781年に即位した桓武天皇は、寺院勢力を弱めるために長岡京に遷都を決め、784年に長岡京へ遷都したのである。

翌785年、長岡京遷都の責任者であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺される事件が起き、早良親王が種継暗殺に関与していたとして捕らえられてしまった。

早良親王は皇太子を廃され、幽閉されてしまう。無実を訴えて絶食するが聞き入れられず、淡路へ流される途中で憤死した。その後早良親王は怨霊となって桓武天皇を祟ったと伝えられている。

水野忠徳(みずのただのり)

江戸時代末期、幕臣の水野忠徳は対外政策で活躍した人物で、日英和親条約に調印している。公武合体策の反対や、攘夷派を壊滅させることを主張したりした。

1861年の鳥羽・伏見の戦い後の評定で新政府軍に対する抗戦を主張するが、徳川慶喜に拒否されて隠居してしまった。この後病に倒れ、失意のあまり憤死したとされている。

まとめ

本記事では歴史上の憤死について解説してきた。憤死と表現されるものは、怒りや憎しみの他に、希望や志が遂げられない失意も含まれるようだ。憤りがそのまま死へ直結する場合もあるのかもしれないが、怒りや憎しみや失意などの負のエネルギーが強すぎて、その人自身の生命力を脅かしてしまったのではないかとも考えられる。

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