渋沢栄一とは?「日本資本主義の父」の経歴と逸話、功績を紹介

渋沢栄一とは?「日本資本主義の父」の経歴と逸話、功績を紹介

2024年から新一万円札の肖像となる渋沢栄一は、多様な企業や経済団体の設立・経営に関わった「日本資本主義の父」と称される偉人。現代の日本の基礎を経済の分野で支えた人物として知られている。渋沢栄一とはどのような人物だったのかを経歴と逸話、功績を交えて紹介する。

渋沢栄一(しぶさわえいいち)とは?

渋沢栄一は、武蔵国の農家の長男として生まれた。そこから武士、官僚そして実業家へと転身していくことになる。現代の日本の基礎を経済の分野で支えた人物として知られ、「日本資本主義の父」と称されている。

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渋沢栄一は、現代の政治や経済にも大きな影響を与えている。そんな渋沢栄一の思想を表した名言を5つ紹介する。
  • 士魂商才
  • 人事を尽くして天命を待て
  • 幸福を求むるものは夢なかるべからず
  • 君子の争いたれ
  • 仁者に敵なし

経歴

渋沢栄一の経歴は以下のようになる。参考にして欲しい。

1840年
誕生
武蔵国榛沢郡(現在の埼玉県深谷市)、豪農渋沢家の長男として生まれる。
1861年
一橋慶喜に士官
いとこの喜作とともに尊王攘夷の志を遂げようと、勘当を願い出て京都へ向かうも、乱世の中志士活動に行き詰まり、平岡円四郎の推挙で一橋慶喜に士官。
1867年
フランスへ渡航
万国博覧会に出席する慶喜の異母弟清水昭武の随員としてフランスへ渡航。大政奉還のため、1868年に帰国。
1869年
明治新政府に出仕
フランスで学んだ株式会社制度を実践し商法会所の設立した後、大久保一翁、大隈重信などの説得で明治新政府に出仕。民部省を経たあと統合された大蔵省へ移り、おもに紙幣局を主導。
1873年
大蔵省を退官
東京大火の再建を井上馨らとともに計画するも、大久保利通、大隈重信と対立をきっかけにして大蔵省を退官、実業家に転身。井上馨、シーボルト兄弟とともに、日本最初の第一国立銀行(現みずほ銀行)を設立、運営を開始。抄紙会社(現在の王子製紙の前身、瓦斯掛(現東京ガス)などを設立。
1874年
養育院の運営に参加
生活困窮救済事業である養育院の運営に参加。後に事務長、院長となり、生涯をかけてこの事業に関わっている。
1877年
東京商法会議所を設立
東京商法会議所(現東京商工会議所)を設立し、初代会頭就任。博愛社が創立されると社員として参加、日本赤十字社と改称されたあとは常議員となり、運営に関わる。
1879年
保険会社、鉄道会社の設立に参画
日本初の保険会社東京海上保険(現東京海上日動火災保険)、日本鉄道会社(現東日本旅客鉄道)の設立に参画。

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渋沢栄一が設立に携わった会社や団体は多数ある。1882年には東京電灯会社(現東京電力ホールディングス)や大阪紡績会社(現東洋紡)の設立発起人。1887年には女子教育の必要性を唱え、伊藤博文、勝海舟とともに東京女学館を設立している。その他、東京ホテル(現帝国ホテル)の発起人になるなど、その数は500以上と言われている。
1887年
東京女学館を設立
女子教育の必要性を唱え、伊藤博文、勝海舟とともに東京女学館を設立。東京ホテル(現帝国ホテル)の発起人になるなど、多くの企業の設立、経営に主要人物として名を連ねて、その数500以上といわれる。
1909年
実業界を引退
民間外交に活動の舞台を変更。1923年の関東大震災の際は、自費で被災者に向け配給を行うなど、復興を支援。
1931年年
死去
92歳で没。多くの弔問客とともに、天皇の勅使、皇后、皇太后からの使者が差し遣わされた。

農民から「日本資本主義の父」と呼ばれるまでの道筋

乱世の幕末を潜り抜けた偉人、渋沢栄一。どういう道筋をたどり農民から「日本資本主義の父」とされる功績を成すまでになったのかを、わかりやすく解説していく。

実業家としての原点は幼少期にあった

渋沢栄一は武蔵国榛沢郡の農家の長男として生まれる。しかし農家といっても裕福な家柄で、原料の買い付けや製造、販売まで行う豪農だった。その渋沢家のメインの収入となっていたのが藍玉。幼い栄一は父に連れられ、原料の調達や藍玉の取引のために各地をまわることになる。

14歳ごろからは単身で仕入れを開始。この仕入れ、製造、販売の流れに幼いときから馴染んできたことが、将来の渋沢栄一の合理主義思想を生み出した原点となっているのだろう。

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渋沢栄一は、農民でありながらいとこのもとへ通い、論語、四書五経、日本外史を学んでいる。さらに剣術では元川越藩剣術師範から、神道無念流の教えを受けている。のちに江戸へ出て海保漁村(かいほじょそん・儒学者)の門下生となると同時に北辰一刀流の御玉が池千葉道場に入門。剣術とともに勤王志士と交流したことが、渋沢栄一の人生を左右していくのだ。

幕末の英雄にみられる生家が裕福という特徴

江戸時代は身分制度がしっかりしていた時代だが、幕末のころになるとそれが崩れていくことになる。平穏な時代であれば、渋沢栄一も豪農の主人として安定した人生を送ったことだろう。

しかし、ときは幕末。乱世では貧しい下級武士や裕福な家に生まれ学問や剣術を身につけた武士ではない人物が台頭する時代だった。農民でありながらも、論語や日本外史を学び、剣術道場で勤王志士との交流がある…まだ若い渋沢栄一は、乱世で台頭できる環境を経ていたのだ。

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明治時代に名を残している偉人も出自は身分が低い者が多数いる。薩摩の西郷隆盛、大久保利通は下級武士、土佐の坂本龍馬は実家が商家、新選組の土方歳三も豪農の家に生まれている。

武家育ちがもたない経済感覚をもった強み

渋沢栄一は尊王攘夷思想でありながら、縁あって徳川御三卿の一橋家に仕え、慶喜が将軍になると幕臣になる。短期間ではあるが、ここで国を動かす政治に触れるのだ。

さらに代々武家であった武士にはない経済感覚をもっていたところに、武士道という机上で学んだ論語を体感していくことになる。「日本資本主義の父」と呼ばれると同時に、「論語と算盤」の言葉に代表される渋沢栄一の思想は、本来の武士がもっていた高い道徳観と生まれた家で身についた経済、流通が融合した考えと言えるだろう。

渋沢栄一の逸話

渋沢栄一は、幕末を生きぬき、明治の世で実業家として活躍した人物だが、安全なところにいたわけではない。危うい思想で命を狙われたことも幾度かあるのだ。ただ、ここで命の危機を体験したことが、のちの世の活動にも大きく影響を与えている。

そんな渋沢栄一の若い時代のエピソードやスケールの大きいすごい経済人としての逸話を紹介する。

高崎城の乗っ取りを計画

渋沢栄一は、幕末の若者の中に広がった勤王思想を信じ活動を開始している。日本外史を幼いころから学び、江戸で勤王志士と交流し影響を受けたことから、完全に尊王攘夷に傾倒していたのだ。

その思想を実行しようと計画したのが、上州の高崎城から武器弾薬を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにするというものだった。さらにそれが成功した際には、攘夷志士の多い長州(現山口県)に合流し、倒幕をするというスケールの大きい危険な計画だった。

この計画はいとこの尾高長七郎の説得により断念するが、攘夷思想を抑えきれず親族に被害が及ばないよう勘当の形を取り、京都へ上っている。

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京都到着が八月十八日の政変直後で志士が抑えられた時期だったのが、渋沢栄一にとっては不幸中の幸いと言われている。行く当てのなかった渋沢栄一は、江戸遊学の際に交流をもった平岡円四郎の引き立てにより、一橋家の末端として仕えることになる。
一橋家は徳川御三卿のひとつ。当主慶喜は「水戸黄門」で有名な徳川光圀以来、尊王攘夷思想が根付いた水戸徳川家の出身だったことも、妥協できるところだったのだろう。

関東大震災の復興に助力

渋沢栄一は、1923年の関東大震災に貢献している人物でもある。官僚時代の経歴を使い、臨時対応の策を政府や東京に献策しながら、自らの私財を使って近県から食料などを仕入れ配給した。さらに慶喜の養子で徳川家を継いだ家達(いえさと)らと作っていた財団協調会を使い、羅災者収容、臨時病院の確保などの対策を実行。

また、立ち上げた大震災善後会では義援金集めの活動を開始すると、国内だけでなくアメリカの実業家からの義援金を集め、東京復興に尽力している。

過去にもお札の候補に選ばれていた

渋沢栄一は、2024年に発行される新一万円札の肖像になることが決まっている。しかし、これまでも日本を代表する経済人として、お札の肖像の候補に何度もなっているのだ。とくに1963年には最終選考まで残るが落選している。

当時は、紙幣偽造を防ぐため、肖像はひげのある人物が良しとされていたためだ。そのときの候補案のデザインは、現在「お札と切手の博物館」で見ることができるので、行ってみて欲しい。

渋沢栄一の功績

先述しているように、渋沢栄一は明治初期から経済界で存在感を発揮し、日本の近代資本主義の父とされている。その著書「論語と算盤」は、1916年に刊行されたものだが、今も多くの起業家や経営者に読み継がれている。その魅力はどんなところにあるか、渋沢栄一の功績とともに見ていきたい。

500以上の企業を設立

渋沢栄一は、実業の世界でも成功した人物だ。設立や運営立ち上げに関わった企業、団体は500を超えるといわれている。ただ、その成功を自らの利益にするのではなく、公や他者を優先していき、豊かな社会を築くことに使うのが根本にある思想となっている。

出世や金儲けだけを考えるのではなく、成功した人ほど社会貢献を考えなければならないという、論語に裏打ちされた商業道徳は、今の時代にも必要な考えだといえるだろう。成功すると、意見を言われなくなりがちだが、だからこそ歴史の中の人物とはいえ、渋沢栄一の言葉を教科書のように使う経営者、起業家が多いのかもしれない。

教育と慈善事業にも貢献

渋沢栄一は、実業だけでなく教育、慈善事業にも多く貢献している偉人だ。一橋大学、東京女学館など今にも続く大学創設、運営に関わっている。

また、日本赤十字や東京慈恵会など医療関係の運営も支え、「論語と算盤」に書いているように老若男女すべての国民へ貢献する姿勢を失わなかった。こうした活動が現代でも高い評価を得ている理由のひとつだろう。

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日本はバブル時代からの流れで、「勝ち組」「負け組」というように人を分ける風潮が生まれ、その考えが今の二極化する社会を作ってしまったとも言える。そんな時代を日本人が一丸となり、戦後復興を成し遂げたような、国民全員の幸せを叶えるような社会へ戻すには、渋沢栄一の思想が必要なのかもしれない。

まとめと蛇足

渋沢栄一が、「日本資本主義の父」と呼ばれるのは、単に成功者だからというわけではない。その経済活動の根本に、一見対局にあるようなお金を稼ぐことと道徳を混在させている思想があるからなのだ。

お金を稼ぐことと同時に社会貢献が同時に成されているからこそ価値がある…これが渋沢栄一の思想であり、日本企業が戦後の復興から世界でも通用している強みと言えるのではないだろうか。

渋沢栄一ラップを作りました(笑)

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最後に蛇足もいいところなのだが、私は日本語ラップの作詞が趣味で、戯れに渋沢栄一と高橋是清がラップバトルをするという動画を作ってみた。よかったら聞いてみてください。
Face of Reiwa

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