2024年から新一万円札の肖像となる渋沢栄一は、多様な企業や経済団体の設立・経営に関わった「日本資本主義の父」と称される偉人。現代の日本の基礎を経済の分野で支えた人物として知られている。渋沢栄一とはどのような人物だったのかを経歴と逸話、功績を交えて紹介する。
渋沢栄一(しぶさわえいいち)とは?
渋沢栄一は、武蔵国の農家の長男として生まれた。そこから武士、官僚そして実業家へと転身していくことになる。現代の日本の基礎を経済の分野で支えた人物として知られ、「日本資本主義の父」と称されている。
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- 士魂商才
- 人事を尽くして天命を待て
- 幸福を求むるものは夢なかるべからず
- 君子の争いたれ
- 仁者に敵なし
経歴
渋沢栄一の経歴は以下のようになる。参考にして欲しい。
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農民から「日本資本主義の父」と呼ばれるまでの道筋
乱世の幕末を潜り抜けた偉人、渋沢栄一。どういう道筋をたどり農民から「日本資本主義の父」とされる功績を成すまでになったのかを、わかりやすく解説していく。
実業家としての原点は幼少期にあった
渋沢栄一は武蔵国榛沢郡の農家の長男として生まれる。しかし農家といっても裕福な家柄で、原料の買い付けや製造、販売まで行う豪農だった。その渋沢家のメインの収入となっていたのが藍玉。幼い栄一は父に連れられ、原料の調達や藍玉の取引のために各地をまわることになる。
14歳ごろからは単身で仕入れを開始。この仕入れ、製造、販売の流れに幼いときから馴染んできたことが、将来の渋沢栄一の合理主義思想を生み出した原点となっているのだろう。
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幕末の英雄にみられる生家が裕福という特徴
江戸時代は身分制度がしっかりしていた時代だが、幕末のころになるとそれが崩れていくことになる。平穏な時代であれば、渋沢栄一も豪農の主人として安定した人生を送ったことだろう。
しかし、ときは幕末。乱世では貧しい下級武士や裕福な家に生まれ学問や剣術を身につけた武士ではない人物が台頭する時代だった。農民でありながらも、論語や日本外史を学び、剣術道場で勤王志士との交流がある…まだ若い渋沢栄一は、乱世で台頭できる環境を経ていたのだ。
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武家育ちがもたない経済感覚をもった強み
渋沢栄一は尊王攘夷思想でありながら、縁あって徳川御三卿の一橋家に仕え、慶喜が将軍になると幕臣になる。短期間ではあるが、ここで国を動かす政治に触れるのだ。
さらに代々武家であった武士にはない経済感覚をもっていたところに、武士道という机上で学んだ論語を体感していくことになる。「日本資本主義の父」と呼ばれると同時に、「論語と算盤」の言葉に代表される渋沢栄一の思想は、本来の武士がもっていた高い道徳観と生まれた家で身についた経済、流通が融合した考えと言えるだろう。
渋沢栄一の逸話
渋沢栄一は、幕末を生きぬき、明治の世で実業家として活躍した人物だが、安全なところにいたわけではない。危うい思想で命を狙われたことも幾度かあるのだ。ただ、ここで命の危機を体験したことが、のちの世の活動にも大きく影響を与えている。
そんな渋沢栄一の若い時代のエピソードやスケールの大きいすごい経済人としての逸話を紹介する。
高崎城の乗っ取りを計画
渋沢栄一は、幕末の若者の中に広がった勤王思想を信じ活動を開始している。日本外史を幼いころから学び、江戸で勤王志士と交流し影響を受けたことから、完全に尊王攘夷に傾倒していたのだ。
その思想を実行しようと計画したのが、上州の高崎城から武器弾薬を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにするというものだった。さらにそれが成功した際には、攘夷志士の多い長州(現山口県)に合流し、倒幕をするというスケールの大きい危険な計画だった。
この計画はいとこの尾高長七郎の説得により断念するが、攘夷思想を抑えきれず親族に被害が及ばないよう勘当の形を取り、京都へ上っている。
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一橋家は徳川御三卿のひとつ。当主慶喜は「水戸黄門」で有名な徳川光圀以来、尊王攘夷思想が根付いた水戸徳川家の出身だったことも、妥協できるところだったのだろう。
関東大震災の復興に助力
渋沢栄一は、1923年の関東大震災に貢献している人物でもある。官僚時代の経歴を使い、臨時対応の策を政府や東京に献策しながら、自らの私財を使って近県から食料などを仕入れ配給した。さらに慶喜の養子で徳川家を継いだ家達(いえさと)らと作っていた財団協調会を使い、羅災者収容、臨時病院の確保などの対策を実行。
また、立ち上げた大震災善後会では義援金集めの活動を開始すると、国内だけでなくアメリカの実業家からの義援金を集め、東京復興に尽力している。
過去にもお札の候補に選ばれていた
渋沢栄一は、2024年に発行される新一万円札の肖像になることが決まっている。しかし、これまでも日本を代表する経済人として、お札の肖像の候補に何度もなっているのだ。とくに1963年には最終選考まで残るが落選している。
当時は、紙幣偽造を防ぐため、肖像はひげのある人物が良しとされていたためだ。そのときの候補案のデザインは、現在「お札と切手の博物館」で見ることができるので、行ってみて欲しい。
渋沢栄一の功績
先述しているように、渋沢栄一は明治初期から経済界で存在感を発揮し、日本の近代資本主義の父とされている。その著書「論語と算盤」は、1916年に刊行されたものだが、今も多くの起業家や経営者に読み継がれている。その魅力はどんなところにあるか、渋沢栄一の功績とともに見ていきたい。
500以上の企業を設立
渋沢栄一は、実業の世界でも成功した人物だ。設立や運営立ち上げに関わった企業、団体は500を超えるといわれている。ただ、その成功を自らの利益にするのではなく、公や他者を優先していき、豊かな社会を築くことに使うのが根本にある思想となっている。
出世や金儲けだけを考えるのではなく、成功した人ほど社会貢献を考えなければならないという、論語に裏打ちされた商業道徳は、今の時代にも必要な考えだといえるだろう。成功すると、意見を言われなくなりがちだが、だからこそ歴史の中の人物とはいえ、渋沢栄一の言葉を教科書のように使う経営者、起業家が多いのかもしれない。
教育と慈善事業にも貢献
渋沢栄一は、実業だけでなく教育、慈善事業にも多く貢献している偉人だ。一橋大学、東京女学館など今にも続く大学創設、運営に関わっている。
また、日本赤十字や東京慈恵会など医療関係の運営も支え、「論語と算盤」に書いているように老若男女すべての国民へ貢献する姿勢を失わなかった。こうした活動が現代でも高い評価を得ている理由のひとつだろう。
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まとめと蛇足
渋沢栄一が、「日本資本主義の父」と呼ばれるのは、単に成功者だからというわけではない。その経済活動の根本に、一見対局にあるようなお金を稼ぐことと道徳を混在させている思想があるからなのだ。
お金を稼ぐことと同時に社会貢献が同時に成されているからこそ価値がある…これが渋沢栄一の思想であり、日本企業が戦後の復興から世界でも通用している強みと言えるのではないだろうか。
渋沢栄一ラップを作りました(笑)
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