明帝国の皇帝独裁政治とは?代表的な皇帝や覚え方もわかりやすく紹介

明帝国の皇帝独裁政治とは?代表的な皇帝や覚え方もわかりやすく紹介

明は、西暦1368年から1644年まで中国を支配した王朝だ。皇帝による専制政治を行い、276年間にわたって中国を支配した。漢民族が打ち立てた最後の王朝だといわれている。ここでは、明について分かりやすく解説し、また代表的な皇帝を紹介する。

明とは?わかりやすく解説

明は、西暦1368年から1644年までの276年間、中国を支配した王朝だ。漢民族の作った最後の王朝といわれていて、モンゴル帝国(元)を中国から追い出して政権を握り、満州人の作った清王朝に攻め込まれ、最後は国内の反乱勢力である順に滅ぼされた。

また、明の時代は、日本では室町時代から江戸時代初期にかけての時代で、日明貿易の相手国として日本史にも登場している。勘合貿易なども日明貿易の一種である。

明は政策として、しばしば海禁策をとって民間の貿易を制限し、朝貢貿易といわれる政府主導の貿易が行われていた。

しかし、この朝貢貿易によって明が他国に金品を贈ったために、明の国力が弱まったともいわれている。

明には全部で17人の皇帝が即位しており、皇帝の専制政治を行って漢民族の文化の隆盛期を築いたわけだが、明の第2代皇帝とされている建文帝は、第3代皇帝・永楽帝の反乱で帝位を奪われており、永楽帝によって即位自体が無効とされている。

そのため、明王朝の時代には、明の皇帝は全部で16人とされていた。

建文帝の即位が認められたのは、後世、清の時代になってからである。そのため、現代では明の皇帝は17代とされているが、当時は16代までとされていたので注意しよう。

明の皇帝独裁政治

明の政治政治体制は、皇帝の独裁政治であり、皇帝の直轄機関として、行政機関の六部、軍事の五軍都督府、監察機関の都察院、補佐役である内閣が存在した。

明の行政は、官吏の任免を行う吏部、戸籍の管理や租税の取り立てを行う戸部、儀式と科挙を執り行い外務をつかさどる礼部、武官の任免と軍政を取り仕切る軍部、司法と警察業務をつかさどる形部、公共工事を管轄する工部によって行われた。

この、吏部・戸部・礼部・軍部・形部・工部を、全部合わせて六部といい、それぞれが皇帝直轄の機関として政治を行っていたのだ。

また、軍事面では軍の統一機関である枢密院を廃止し、軍を中軍・左軍・右軍・前軍・後軍の五つにわけて五軍都督府をおいて、それぞれを皇帝直轄の機関とした。官僚の監察を行う機関は、それまでの御史台から都察院へと名前を改めている。

明では宰相府である中書省を廃止したが、全ての政務を皇帝一人が行うのには無理があったため、補佐役として内閣が制定された。秘書官的な役職であり、内閣大学士の首席が、実質的な宰相であった。

明の政治体制は、基本的に全ての機関が皇帝直轄の機関であり、強固な皇帝独裁政治が敷かれていたのだ。

明の代表的な皇帝

明には、どのような皇帝がいたのだろうか。次は、明の有名な皇帝を紹介する。

初代皇帝の光武帝(朱元璋)

明の初代皇帝・洪武帝は、名前を朱元璋(しゅ・げんしょう)といい、農民の出身だ。紅巾の乱で紅巾軍に参加して頭角を現し、各地の反乱軍や紅巾軍を制圧して勢力を伸ばしていった。1368年に応天府(南京)で皇帝に即位している。同年に元の首都・大都を落とし、1387年にはモンゴル軍を万里の長城の外へと追い出し、中国を統一した。

即位後は、明王朝の存続のために粛清と弾圧を繰り返し、皇帝による独裁政治体制を築いた。儒教の影響で農業を重視し、商業を軽視して弾圧した。対外的には海禁策で交易を制限し、朝貢貿易を行った。

ちなみに、紅巾の乱は宗教団体の白蓮教が起こしたものであり、「明」という国名は光・太陽を意味している。また、白蓮教では救世主を「明王」と呼称していたので、自らが救世主だという意味合いを込めたともいわれている。

三代皇帝の永楽帝(朱棣)

明の三代皇帝・永楽帝は、名前を朱棣(しゅ・てい)といい、洪武帝の四男だ。兄の息子である2代皇帝・建文帝が皇族を粛正するのに反対し、反乱を起こして建文帝から帝位を奪い、即位自体を無効とした。これを靖難の役という。

若いころから父親・洪武帝にしたがって、明の建国に貢献した。有能な軍人であり、皇帝としても外征を繰り返し、明の領土を広げている。首都を北京に遷都し、満州地方を支配下に置くなど、北方対策に熱心だった。

また、朝貢国を増やすために、鄭和の大船団を派遣した。鄭和は東南アジア・インド沿岸・アラビア・アフリカ東岸の諸国に朝貢を求めている。

ヨーロッパの大航海時代よりも百年以上前のことであり、鄭和は南米大陸にも辿り着いていたとされている。その事実は、明の技術力の高さを物語っているだろう。

十四代皇帝の万歴帝(朱翊鈞)

明の14代皇帝・万歴帝は、名前を朱翊鈞(しゅ・しょうきん)という。10歳にして帝位につき、幼い時代は重臣の張居正が政治を行って、明の財政は回復するのだが、張居正が死亡すると親政をはじめた。

しかし、贅沢にふけり、政治をおろそかにしたために明の財政はひっ迫していき、明は衰退していった。

朝鮮半島への豊臣秀吉の日本軍が侵攻や、満州国の女真族をはじめとした各地の反乱に対処するために軍事費が増大し、明の財政は危機的状況に陥るのだが、万歴帝は朝廷に出仕もせずに贅沢三昧の日々を過ごしていたという。

その様子から、「明は万歴に滅ぶ」と評された。明の時代を代表する、暗愚で無能な皇帝として知られている。

十七代皇帝の崇禎帝(朱由検)

明の17代皇帝は崇禎帝で、名前は朱由検(しゅ・ゆうけん)という。明の最後の皇帝として知られている。

15・16代の皇帝が政治に関心を示さなかったのに対し、崇禎帝は自ら政治を行ったが、疑り深く、重臣を次々処刑した。最終的には、国内の反乱軍である順に紫禁城を攻め落とされて自害している。

明の皇帝の覚え方

明の代表的な皇帝の覚え方として、「民主、永遠に万全」という語呂合わせの覚え方が存在する。

「民(=明)主(=朱元璋・初代洪武帝)、永遠に(=永楽帝)万全(=万歴帝)」という意味なので、ぜひ覚えてみてほしい。

まとめ

明は、西暦1368年から1644年までの276年間、中国を支配した王朝だ。強固な皇帝独裁政を敷き、大国・中国で栄えた王朝のひとつだが、日本ではあまり有名ではない。今回は大まかな説明と代表的な皇帝を紹介したが、興味があるならば詳しく調べてみてほしい。

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