宦官とは、去勢した役人である。去勢は刑罰として始まったが、次第に去勢後は皇帝や後宮に仕える官僚となり、権力を持つ者も出てきた。一国の政治に深くかかわるようになった宦官はどのような役割を担ったのか、中国以外にも存在したのかなどをわかりやすく簡単に解説していく。
宦官とは?わかりやすく解説
宦官とは、去勢を施された皇帝や後宮に仕える男性の役人の総称である。はじめは刑罰や、異民族の捕虜を奴隷献上することを目的に去勢が行われていたが、次第に宮廷の役人としての役割を担うようになった。特に中国では、明朝の時代に勃発した帝位継承の内乱・靖難の変で宦官が活躍し、それ以降皇帝に重用されることになる。
宦官の歴史は長く、「宦官」という名称は当時使われていなかったが、紀元前8〜前3世紀間の春秋戦国時代には既に去勢した役人は存在したようだ。そしてつい100年ほど前の、1924年の馮玉祥のクーデターが勃発するまでは皇帝に仕える宦官が存在していた。
中国をイメージしやすい宦官であるが、実は世界各地にいたことが判明している。古代ギリシャやローマ、オスマン帝国をはじめとしたイスラム諸国など、時代や地域はさまざまである。いずれも国の権力者に昇り詰める者がおり、宦官は世界史に影響を及ぼした存在であるともいえるだろう。
宦官の容姿
宦官の容姿は、一般的な男性と比べると女性的であった。去勢の影響で男性ホルモンが分泌されにくくなったことが原因で、髭が生えにくく、喉仏は小さく、丸みを帯びた体型をしていた。中には美人で評判になる者もいて、皇帝の寵愛を受けたり、一族の出世の足掛かりになったりする人物もいたとされている。
宦官の仕事と去勢が必要だった理由
宦官の主な仕事は、天子の世話と後宮の管理だ。天子の世話では、天子と部下との取次役や秘書の業務といった公的な仕事から、私的な事柄までと仕事の種類は幅広かったとされている。
また、後宮では建物や日用品の管理、施設内の清掃など、雑務を多くこなした。加えて皇帝と皇后・側室との情交の日時の記録も担当した。宦官になるために去勢が必要だった理由は、後宮の美女たちと過ちを犯さないためである。
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宦官と政治の関係
国の運営に深くかかわるポジションに就いていた宦官は、政治とは切っても切れない関係にあった。特に中国の後漢時代には宦官の影響力が強く、政治の腐敗につながる事柄が頻発している。
後漢は西暦25〜220年の約200年間続いた王朝である。複数の国家を1人の皇帝の元に寄せ集めた形で統治しており、地域ごとの豪族は外戚となって権力を握ることを目的に、皇帝と婚姻関係を結ぶようになった。
第4代和帝が数えで10歳のころに即位すると、幼い子には政治を任せられないからと外戚である皇太后が実権を握り、皇太后の兄が大将軍として台頭した。その後成長し、実権を取り返そうとした和帝は宦官である鄭衆と協力し、大将軍らを殺害。これ以降、外戚と宦官の争いが継続するようになる。
また、第6代安帝の治世には宦官の江京・李閏ら、第8代順帝の頃には孫程をはじめとした宦官による外戚の粛清が行われた。加えて3人の皇帝の外戚となり、強大な権力を誇っていた梁冀を滅ぼして以降、宦官が政治の中心的な立場を独占するようになる。
ただ、宦官の時代も長くは続かず、権力を私物化する彼らを批判する世論が巻き起こり始める。西暦166年には役人の李膺によって宦官の不正が暴かれたが、宦官たちは李膺をはじめとした200余人を投獄する1回目の党錮の禁が発生。西暦168年には宦官を抹殺しようとした事件を理由に、2回目の党錮の禁を起こした。
そして西暦184年に農民反乱である黄巾の乱が勃発。その間も外戚と宦官の対立は続き、内政をコントロールできず、最終的に外戚と宦官は共倒れとなり、後漢は滅亡の道を歩むことになるのだ。
中国史における著名な宦官
ここでは中国史における著名な宦官を紹介するので、参考にしてほしい。
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世界各地の宦官
中国史では政治にも大きな影響を与えた宦官だが、世界各地にもその存在が記録されている。ここでは世界各地の有名な宦官を3人紹介するので、参考にしてほしい。
ナルセス
ナルセスは、5〜6世紀にかけて東ローマ帝国の官僚として活動した宦官である。ナルセスが宮廷に仕えていたころ、東ローマ帝国はイタリア半島を支配している東ゴート王国を征服しようと計画していた。当初は東ローマ帝国が優勢だったが、ササン朝ペルシアの東ローマ帝国への侵攻が起こったことで戦況は劣勢に転じてしまう。
そこで皇帝はナルセスを東ゴート王国征服作戦の総司令官に任命。見事イタリア半島征服を達成し、ナルセスはイタリア総督にも任命された。
アーガー・モハンマド・シャー
アーガー・モハンマド・シャーは、1779年にイランのカージャール朝を興した人物だ。厳密には宦官という役職には就いていないが、彼が生まれたガージャール族の勢力拡大を恐れたアフシャール朝のアーディルの命令により、幼少期に去勢された。去勢後、アーガー・モハンマド・シャーは人質として捕らえられる。
しかし、彼を捕らえたカリーム・ハーンには大変かわいがられ、学問も身につけることができたという。カリーム・ハーンの死後は後継争いに参戦し、イランのほぼ全土を手に入れて新しい王朝を創始した。
マリク・カーフール
マリク・カーフールは、13〜14世紀にかけて、インド北部のハルジー朝の武将として活躍した宦官だ。当初はハルジー朝の捕虜であったため、去勢されたとされている。去勢後は宦官奴隷としてスルターン(君主)に仕えた。
スルターンのお気に入りであったマリク・カーフールは、南インド遠征の指揮官に任命される。遠征に成功したマリク・カーフールは強大な権力を手にするが、次第に横暴な態度を取ったり、スルターンの息子を傀儡にしたりと暴走していく。最後は彼の行動に反発した貴族に暗殺され、生涯を終えた。
宦官は日本にもいた?
中国をはじめ世界各国に存在していた宦官だが、日本にはいなかったとされている。確かに日本にも去勢した男性はいた。特に鎌倉〜室町時代にかけては刑罰や宗教的な理由で去勢した例は多く見られる。
しかし、中国のような「宦官制度」に関する記録は確認されておらず、日本には宦官がいなかったという説が定説である。
まとめ
捕虜や奴隷から始まり、次第に国政の実権を握るようになった宦官。彼らが権力の獲得に執着した理由の一つは、下級宦官の悲惨な末路を避けるためだという。当時の下級宦官は高齢になると解雇され、最期は餓死する者が多発していた。この事態を回避するには上級宦官になるしかなく、皆権力闘争に躍起になっていたのだ。
しかし権力に固執しすぎた結果、国民をないがしろにし、クーデターや暗殺などが発生するケースが多かったようだ。そのため、宦官は内政を混乱させた元凶だとみなされるようになったのだ。