名誉革命~イギリスの立憲君主政治を確立した無血の革命

名誉革命~イギリスの立憲君主政治を確立した無血の革命

名誉革命とは、スチュアート朝時代のイギリスで起こったクーデター事件だ。国王大権の濫用とカトリック復興政策に対して、イギリス議会が国王ジェームズ2世を追放し、外国から新しい国王を迎えて政治体制の基礎を築いた革命である。

名誉革命とは?わかりやすく解説

名誉革命とは、1688年~1689年にかけてイギリスで起こったクーデター事件だ。別名「無血革命」とも呼ばれるこの革命によって、国王ジェームズ2世はイギリス議会に追放され、代わりにイギリス議会の要請を受けたメアリー2世(ジェームズ2世の娘)とその夫・ウィレム3世が国を統治することになる。

また、メアリー2世とウィレム3世が「権利の章典」を制定したことによって、議会政治と国教会制度を柱とするイギリスの立憲君主政治が確立した。

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名誉革命以前に起こったからピューリタン革命とあわせて「イギリス革命」と呼ぶこともあるので覚えておこう。

「名誉」と呼ばれるのはなぜ?

この革命が「名誉」と呼ばれる理由は、1642年に起きた市民革命である「ピューリタン革命」と比較すると、ほぼ無血に等しいことからだろう。

なお、ピューリタン革命は、当時の国王チャールズ1世による専制政治に反発したキリスト教一派のピューリタン(清教徒)たちが、独立派のクロムウェルを中心に立ち上がった市民革命だ。

この革命では、クロムウェル率いるピューリタンたちが国王軍を破り、イギリス至上「最初で最後の共和政(国王のいない政治体制)を実現させたのだが、多くの死者が出ている。

名誉革命が起こった背景

名誉革命が起った背景を理解するためには、国王ジェームズ1世の時代からピューリタン革命までの流れを理解する必要があるだろう。

国王ジェームズ1世の時代は、王権神授説(国王の支配権は神から授かったもの)を唱え、専制政治を行っていた。その結果、国王は伝統的な議会を無視して好き勝手な振る舞いしたり、イギリス国教会(イギリス国王をトップとする宗派)を強制したりと、政治的にも宗教的にも独断的に国を統治していたのだ。つまり、絶対王政を敷いていたのだ。

その後、国王に即位したジェームズ1世の息子・チャールズ1世も父と同じく王権神授説を唱えたことによって、絶対王政に反発した議会のなかでは、王党派と議会派に分かれて争うことになる。

また、議会派もひとつにまとまるわけではなく、「長老派」「独立派」「水平派」と派閥が3つに分かれていた。この3つの派閥のうち、独立派のクロムウェルが水平派と組んでチャールズ1世に反乱し、勝利を収めたのがピューリタン革命だ。

ここまでの流れを把握したうえで、名誉革命の背景を見ていきたい。

王政の復活

ピューリタン革命によって共和政を実現したイギリスでは、誰もがこれまでの圧政から解放されると考えていたが、ピューリタン革命の立役者であるクロムウェルの独裁が始まることになる。

独裁政治を行ったクロムウェルであったが1658年に死亡。その後は、息子のリチャードが地位を引き継ぐが、わずか8ヵ月で辞任となり、クロムウェル家によるイギリス支配は終わりを告げた。

1660年には、貴族院と庶民院の二院制が復活すると同時に王政復古がなされ、フランスに亡命中のチャールズ2世が呼び戻されることになり、チャールズ2世が議会に対して「ブレダ宣言」を出すことによって、両者は和解することになる。

なお、チャールズ2世が議会に対して提示した「ブレダ宣言」の内容は次の4点だ。

  • ピューリタン革命の関係者への大赦
  • 信仰の自由を認める
  • 革命中に所有者が移動した土地の所有権の承認
  • 軍隊への未払い金への支払い

しかし、実際にはブレダ宣言の内容が一部守られなかったため、王と議会は再び対立することになるのだ。また、チャールズ2世の弟・ジェームズ2世の時代には、国王による独裁的な政治が再び敷かれることになり、名誉革命へと発展していく。

カトリックとプロテスタントの宗教問題

ピューリタン革命以降、イギリスの議会はピューリタン(プロテスタント諸教派の総称)が大多数を占めていた。そのようななか、王政復古で即位したチャールズ2世は、亡命先のフランスでルイ14世の影響を受けたことにより、カトリックに改宗していた。

チャールズ2世は、先述したブレダ宣言で信仰の自由を認めておきながら、カトリック教徒を重用し、これに反対するプロテスタントの大臣を次々に罷免していくことになる。その結果、議会の支持を得ることができなくなるのだ。

また、その後王位を継承した弟のジェームズ2世もカトリックであったため、兄と同様に議会の支持を得ることができず、対立することになる。

名誉革命の経緯

カトリック教徒を重宝する国王ジェームズ2世との対立が続くなか、議会はジェームズ2世の娘・メアリー2世とその夫・ウィレム3世にイギリスへの上陸と国王への即位を要請する。

即位要請の理由は、メアリーが母のアン・ハイドからプロテスタントとして育てられていたことと、プロテスタント国オランダの総督であるオラニエ公ウィレム3世に嫁いでいたことが挙げられるだろう。

また、ウィレム3世側もイギリスを反仏・親オランダの側に取り込む目的をもっていた。フランスを危険視していたウィレム3世にとって、フランス包囲網を築くためにはイギリスが親仏のであることには都合が悪かったのである。

この経緯を踏まえたうえで名誉革命を見ていきたい。

名誉革命の時系列

ウィレム3世への要請以降の経緯をタイムラインで表している。時系列で流れを追うことでわかりやすくなるので参考にしてほしい。

1688年11月15日
イギリス上陸
ウィレム3世はオランダ軍2万を率いてイギリス西部デヴォン海岸に上陸。
1688年11月17日
宣言文を配布
ウィレム3世は、「上陸は英国国民の権利を回復するものである」という趣旨のパンフレットを配布する。
1688年11月23日
イギリス軍がソールズベリーに到着
イギリス軍がソールズベリーに到着。翌日の11月24日には、指揮官であるコーンベリー子爵エドワード・ハイドがオランダ軍に寝返る。
1688年11月27日
ジェームズ2世がロンドンから出陣
指揮官の寝返りを受けたジェームズ2世はロンドンを出陣。出陣に合せて庶子のベリック公ジェームズ・フィッツジェームズをポーツマス基地に派遣。
1688年12月3日
イギリス軍が戦わずしてオランダ軍に投降
軍議方針がまとまらず、ジェームズ2世はロンドンへと引き上げる。その後、創設した常備軍の司令官ジョン・チャーチルが脱走、オランダ軍に投降する。
1688年12月21日
ジェームズ2世が1回目の亡命
前日(12月20日)に王妃と王子をフランスに亡命させ、自らも亡命を図ったが、ケントにて捕らえられる。メアリー2世の立場も考慮され、ジェームズ2世は処刑を免れる。
1688年12月24日
イギリス軍が交戦を停止
ジェームズ2世不在のロンドンでは、暫定政権が発足。暫定政権の支持を受け、オランダ軍に対するイギリス軍の交戦が停止される。
1689年1月2日
ジェームズ2世、2回目の亡命
前年の12月26日にロンドンへの期間を果たしたジェームズ2世だが、12月28日にはウィレム3世の要請でロンドンを退去。5日後の1月2日にフランスへ亡命する。
1689年2月1日
ウィレム3世とメアリー2世が国王に即位
議会側はメアリー2世単独の王位を望んでいたが、ウィレム3世が不服を申し立てたことによって、ウィレム3世とメアリー2世が国王として即位することになる。なお、ウィレム3世はオランダ統領を兼ねたままの即位となっている。
1689年2月23日
権利の宣言に署名
ウィリアム3世とメアリー2世は、王位に対する議会の優位を認めた「権利の宣言」に署名。同年、「権利の章典」として発布された。こうして名誉革命は終結となる。

名誉革命がもたらした影響

名誉革命は、その後のイギリスに大きな影響を与えた事件でもある。ここでは、名誉革命がイギリスにもたらした影響を紹介していく。

「権利の章典」の成立

名誉革命後、イギリスでは「権利の章典」が成立することになる。権利の章典は、イギリス国王の存在を絶対的なものとしつつ、議会や国民の自由と権利を定めた法律だ。その主な内容は、以下のようになっている。

  • カトリック教徒を王位継承者にすることを禁止
  • 議会の同意を経ない法律の適用免除・執行停止の禁止
  • 議会の同意なき課税の禁止
  • 平時の常備軍の禁止
  • 議会選挙の自由、議会内の発言の自由、国民の請願権の保障
  • 国民の請願権、議会における議員の免責特権、人身の自由に関する諸規定

つまり、国王の権力が憲法によって規制され、イギリスにおける議会政治の基礎が築かれたのだ。こうして議会政治と国教会制度を柱とするイギリスの立憲君主政治が確立したのである。

フランスとの関係悪化と一部のカトリックによる反発

名誉革命では、イギリスが親オランダの立場をとったことからフランスとの関係が悪化していくことになる。

当時フランスは最強の軍事力を誇っており、その勢いによって各方面へ侵攻していた。オランダはフランスに対抗するために同盟を結成。オランダの総督でもあったウィレム3世率いるイギリスも、名誉革命の直後から同盟に加わることになったのだ。

また、 ウィレム3世 はカトリックを排除する政策に伴い、多くの国民からの支持を得られた一方で、一部のカトリックからは反発を受けることになる。

やがて、ジェームズ2世に忠誠を誓っていたスコットランド貴族のジョン・グラハムが反乱を起こし、さらにはジェームズ2世がフランス軍を率いてアイルランドに上陸。これにカトリックのアイルランド人が同調したことにより、ウィリアマイト戦争が始まったのだ。

しかし、この反乱は1670年のボイン川の戦いにてウィレム3世が勝利し、ジェームズ2世率いるフランス・アイルランド連合軍は戦いに敗れ、鎮圧となる。

名誉革命~イギリスの立憲君主政治を確立した無血の革命toku168

革命後にフランスの干渉を受けたイギリスは、フランスと溝が深まっていくことになる。1688年にはフランス対ヨーロッパ諸国の争いとなる大同盟戦争が起こるわけだが、1690年にはイギリスもヨーロッパ諸国連合としてこの戦いになだれ込むことになるのだ。

まとめ

名誉革命は偉大なる革命(Glorious Revolution・グロリアス・レヴォリューション)とも呼ばれている。説明してきた通り、イギリスでは結果的に血の流れない革命だったからだ。

しかし、革命後に起こったウィリアマイト戦争では、アイルランドで多くの血が流れている。つまり、名誉革命はあくまでもイギリス側からみた「グロリアス(栄光・名誉)」であったにすぎないのだ。

このように、見方によって捉え方が変わるのも歴史の興味深いところかもしれない。

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