五賢帝時代とは?ローマ帝国が最盛期を迎えた時代についてわかりやすく解説

五賢帝時代とは?ローマ帝国が最盛期を迎えた時代についてわかりやすく解説

五賢帝時代とは、西暦96年から西暦180年までの時代のことだ。この間に五人の皇帝がローマを支配し、五賢帝と呼ばれている。ローマ帝国は繁栄と平和を享受し、領土は最盛期を迎えた。ここでは、五賢帝の即位の順番や覚え方、五賢帝時代の特徴についてわかりやすく説明する。

五賢帝時代とは?わかりやすく解説

五賢帝時代は、西暦96年にネルウァ帝が即位したときから、西暦180年にマルクス・アウレリウス帝が崩御するまでの期間を指す。

五賢帝時代では、軍事的には、トラヤヌス帝の時代にローマ帝国の領土は最盛期を迎えていた。

ローマ帝国は始まって以来の繁栄と平和を築き上げ、「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)と呼ばれる時代の一角をなしている。パクス・ロマーナの時代は、紀元前27年のアウグストゥスの皇帝即位から、五賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウスが崩御するまでの約200年間のことを指している。

五賢帝は名君と呼ばれていて、ルネサンス期の政治思想家・マキャベリからも高く評価されている。さらに18世紀のイギリスの歴史家エドワード・ギボンは、五賢帝時代を「人類が最も幸福な時代」と評した。

五賢帝時代の特徴として、帝位が実子ではなく養子縁組によって受け継がれたことが挙げられる。これにより、優秀な人間が帝位を受け継いだためにローマ帝国が繁栄したのだ。もっとも、五人目のマルクス・アウレリウス帝以外の4人には実の息子がいなかったのが養子を後継ぎにした理由だと言われている。

政治的には、比較的温和な政策がとられ、平和な時代だった。五賢帝の中には暴君と評されるような人物はおらず、元老院との協調を重視して、バランスの良い政治が行われている。占領地域での反乱は起こったが、国内での内乱の類は起こってはいない。

領土面についても、2人目のトラヤヌス帝の時代には最盛期を迎えているが、3人目のハドリアヌス帝の時代は領土拡大から維持・縮小傾向に転じている。さらに最後の五賢帝であるマルクス・アウレリウス帝の時代には、北方のゲルマン人の侵攻が激しくなり、ローマ帝国の衰退も始まっていた。

五賢帝の順番

五賢帝の帝位継承の順番を説明する。

  1. ネルウァ帝 在位西暦96年~98年 98年1月28日に崩御
  2. トラヤヌス帝 在位西暦98年~117年 117年8月9日に崩御
  3. ハドリアヌス帝 在位西暦117年~138年 138年7月10日に崩御
  4. アントニヌス・ピウス帝 在位西暦138年~161年 161年3月7日崩御
  5. マルクス・アウレリウス帝 在位161年~180年 180年3月17日崩御

五賢帝は、世界史の試験などでも頻出する重用事項なので、受験生ならば名前と即位の順番を覚えておくべきだろう。

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五賢帝の帝位継承順の覚え方として、「寝る虎はあまる」という語呂合わせがある。
寝る=ネルウァ帝、虎=トラヤヌス帝、は=ハドリアヌス帝、あ=アントニヌス・ピウス帝、まる=マルクス・アウレリウス帝のことで、これを覚えれば五賢帝の即位の順番が分かりやすくなるだろう。

五賢帝と各時代の特徴

次に、五賢帝が統治していた時代のそれぞれの特徴について説明する。

ネルウァ帝

ローマ帝国の第12代皇帝にしてネルウァ=アントニヌス朝の最初の皇帝である。第8代皇帝・ネロ帝の時代から宮廷に仕えていて、優れた外交官兼政治家として立身を果たしている。

先帝ドミティアヌスの暗殺後に元老院の推挙で皇帝に即位する。すでに65歳の老齢であり、在位は15ヶ月しかなかった。歴代の皇帝との血縁関係がない珍しい皇帝である。

政策としては、先帝時代に迫害された人物の名誉回復に努めた。さらに元老院の議員を処刑しないと宣言して、平和な時代の礎となった。この宣言は五賢帝時代を通じて守られている。

先帝の暴政の影響が残り混乱する中で、軍部との軋轢から、軍人として高い名声のあったトラヤヌスを養子にして帝位を受け継がせた。これにより、軍部の不満は収まり、帝位継承はスムーズに行われた。

トラヤヌス帝

ローマ帝国の第13代皇帝で、ネルウァ=アントニヌス朝の第2代皇帝。イタリア本土の出身ではなく、属州生まれの人間として初めての皇帝である。

内政面ではネルウァ帝の路線を継承し、強圧的な統治を極力避け、穏当な政治を行った。具体例としては、ドミテイアヌス帝の時代に不当に投獄された囚人を開放したり、没収された財産を返還している。さらに帝国内の公共施設の拡充も行っている。

軍事面ではダキア戦争とパルティア戦争において2度に渡って歴史的な勝利を収めており、ダキア(現在のルーマニア)とメソポタミアを属州とし、ローマ帝国の領土は最盛期を迎えている。しかし、115年と117年に反乱が相次いで起き、領土の一部を失った。反乱の鎮圧に向かった軍が撤退し、イタリア本土へと戻る途中で病死する。

トラヤヌス自身は後継者を定めず、遺言を残していなかったが、皇后ポンペイアがトラヤヌス帝がハドリアヌスを後継者に勅定していたと証言して養子に迎え、帝位を継承した。

トラヤヌス帝は、当時から現在まで優れた君主として高く評価されている。軍事と政治に辣腕を振るった、文武両道の皇帝である。

ハドリアヌス帝

ローマ帝国第14代皇帝にして、ネルウァ=アントニヌス朝の第3代皇帝。トラヤヌス帝の従兄弟の息子に当たる。トラヤヌス帝の治世において政治と軍事に功績を立てて、順調に出世している。

パルティア遠征軍の司令官として現地にいるときに、トラヤヌスの養子となった書簡を受け取り、その2日後にトラヤヌス帝崩御の知らせが届いた。公式にはこの日が即位の日とされている。

内政においては、法制度改革を行い、官僚制度を確立させ行政制度を整備した。このハドリアヌス帝が構築した官僚制度が以降のロ-マ帝国の基礎になっている。また、属州の重要性を強調し、開発を進め、イタリア本土との一体化を計っている。

軍事面においては、先帝トラヤヌスの拡大路線から転換し、東方の国境を外交により安定化させた。さらに軍事的圧力を受けている地域に防壁(リメス)を築き、帝国の防衛力を強化している。属州のブリタンニアの北部には「ハドリアヌスの長城」と呼ばれる防壁が建造された。

132年にはユダヤ人の反乱である「バル・コクバの乱」が起こり、鎮圧に3年を要している。

アントニヌス・ピウス帝

ローマ帝国第15代皇帝にして、ネルウァ=アントニヌス朝の第4代皇帝。アントニヌス・ピウスとは、「慈悲深いアントニヌス」という意味である。

そう呼ばれるようになった経緯には、先帝ハドリアヌスの名誉を回復を図ろうとした説と、先帝に処刑されるはずだった人物を救った説がある。

アントニヌス帝は学問や芸術の保護に熱心で、多くの劇場や神殿を建設している。さらに帝国の法制度を修正し、市民権や奴隷制度に対する大胆な改革を志した。法改革により奴隷の市民権獲得の必要条件が緩和されて、解放奴隷への道は大きく開けた。

軍事的には、軍部と距離をとり、大規模な遠征は行っていない。ブリタニアとマウレタニアで小規模な動乱が起こったほどである。アントニヌス・ピウスの治世は、前期帝政(プリンキパトゥスにおいて最も平穏だったと言われている。

マルクス・アウレリウス帝

第16代ローマ皇帝にして、ネルウァ=アントニヌス朝の第5代皇帝。ストア派の哲学者であり、五賢帝の最後の皇帝としても知られている。先帝アントニヌスの妻の甥にあたり、先帝の皇女と結婚して帝位を継いだ。

内政面では、法律の専門知識を活かして法改革や行政を行った。特に孤児や少年少女の保護、解放奴隷に対する法律を改革している。

軍事面では、第6次パルティア戦争とマルコマンニ戦争で苦戦している。マルコマンニ戦争は10年以上続き、外敵に抵抗し続けた皇帝として高く評価された。

アウレリウス帝はその質素な生活と貴族的でない謙虚な振る舞いから庶民的な皇帝として民衆に人気があった。軍事よりも学問を好んだ皇帝とされ、「哲人皇帝」の実現像と呼ばれている。なお、中国の歴史書「後漢書」に登場する「大秦国王安敦」は、アウレリウス帝のことである。

死後は実子のコンモドゥスが帝位を継いだが、コンモドゥス帝はローマ史における著名な暴君として名を残している。

まとめ

ここでは、五賢帝の即位の順番や覚え方、五賢帝時代の特徴についてわかりやすく説明した。

五賢帝時代は、ローマがもっとも繁栄して平和だった時代であり、世界史の授業や試験ではたびたび登場する。それだけ重要な時代だと言えるだろう。

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