ヘイロータイとは?軍国主義のスパルタにおける身分制度を解説

ヘイロータイとは?軍国主義のスパルタにおける身分制度を解説

ヘイロータイは、スパルタにおける身分制度のひとつである。軍事国家スパルタでは、征服した人々をヘイロータイと呼び、支配していた。今回はヘイロータイの概要を紹介し、スパルタの身分制度についても説明する。

ヘイロータイとは?わかりやすく解説

まずはヘイロータイ(英語表記:ヘロット)についてわかりやすく解説する。

紀元前1500年頃からペロポネソス半島ラコニア地方に住んでいたアカイヤ人は、スパルタ人によって1100年頃征服されてしまった。そしてアカイヤ人は全て奴隷身分に落とされたのである。

ヘイロータイの語源は古代ギリシア語で、沼地に住む人々または捕らえられた人々を指す言葉だった。そこでヘイロータイとは、元々沼地に住んでいた場所と、捕らえられて奴隷になった身分のことを指していると言える。

つまり、ヘイロータイとは、スパルタが征服して奴隷にした人々のことだ。

またスパルタ人は、第一次メッセニア戦争で紀元前8世紀頃にメッセニアを征服し、メッセニア人もヘイロータイにしたのである。

ヘイロータイに対するスパルタ人の扱い

ヘイロータイ扱いは、まさに奴隷としての扱いであった。まず戦いで勝利したスパルタ人は、敗戦国の捕虜としてヘイロータイという奴隷扱いにし、スパルタ人の土地に配属させて、所有地を耕作させたのである。

自分の私有地で農業をするヘイロータイに、スパルタ人は収穫物の一部を貢納させていた。そして、農業以外の労働に就く自由はなく、参政権や兵役といった市民の権利や義務は当然与えられていない。

ただヘイロータイは結婚して家族を持つことと、財産を持つことは許されていた。スパルタ人とヘイロータイの関係は労働環境に関して言えば、日本でいう地主と小作人に近いと言えるだろう。

ヘイロータイとペリオイコイの違い

スパルタの身分制度には、ペリオイコイという身分も存在している。ペリオイコイとは、ギリシア語で周辺住民という意味で使われていて、もともとスパルタの周辺に住んでいた民のことだ。

スパルタが周辺国に勢力を伸ばしていく中、戦いではなく盟約を結び、平和的にスパルタの支配下に入ることを選んだ人々である。

ペリオイコイの具体的な起源はわかっていないが、先住民族にあたるアカイヤ人や、スパルタの建設に加わらなかったドーリア人が融合して、スパルタ都市の周辺に住む形で形成されていったのではないかと言われている。

参政権は持たないが、ヘイロータイとの違いとしては戦時において兵役に就くことなどが定められていた。

また農業のみに従事するヘイロータイとは違い、平時には自治も認められているため商工業に従事する人々もいて、ある程度の職業の自由も認められている。そのため、スパルタ人よりも権利が限定された「半自由民」や「劣格市民」と呼ばれることもある。

身分としてはスパルタ市民と、ヘイロータイの中間にあたるのがペリオイコイだ。

ヘイロータイを支配していた軍国主義のスパルタ

ヘイロータイを支配していたスパルタは、紀元前10世紀頃から紀元前146年まで存在した古代ギリシアの都市国家のひとつである。

現在の地図でいうと、ギリシア大陸南端部分に拡がるペルポネソス半島の南部スパルティに存在していた。紀元前431年~404年に起こったペルポネソス戦争でアテナイに勝利し、一時期はギリシアの覇権を握っている。

スパルタは一言で言うと、兵役制度と厳しい軍事訓練を中心とした教育を行う軍国主義の国家であった。男性は7歳から、厳しい軍事訓練を受けることが義務付けられ、古代ギリシアで最強と謳われた軍人を育成してきたのであった。

軍国主義を形成した「リュクルゴスの制」

スパルタが軍事国家として台頭していく過程では、リュクルゴス制が大きな影響を与えている。リュクルゴス制とは、土地の均等配分や長老会議とされる合議制のほか、スパルタ教育として知られる軍事教育制度や市民皆兵による常備軍制度などを定めた制度だ。

実は、支配者であるスパルタ市民の割合は全市民の6.7%と少数派で、構成比として圧倒的多数だったのは71.7%を占めていたヘイロータイとされている。残りは、劣格市民であるペリオイコイだ。

圧倒的多数であるヘイロータイはしばしば反乱を起こしたので、これを鎮圧するために少数派のスパルタ市民は1人で10人を倒せるほど、屈強でなければいけなかったのである。

つまり、リュクルゴス制は、ヘイロータイの反乱を鎮圧して少数派のスパルタ市民が支配層に君臨するために必要だったのだ。

ペロポネソス同盟の盟主へ

紀元前6世紀頃までにリュクルゴス制によって軍国主義を確立したスパルタは、ペロポネソス半島の他のポリスとの抗争を優位に進めた。そしてギリシアのほかのポリスとも攻守同盟を結び、同盟の盟主となったのである。

ペルシア戦争での活躍

紀元前492年から449年に渡り、アケメネス朝ペルシア王国の遠征軍対ギリシア諸都市の連合軍との、3度に渡る戦いをペルシア戦争と呼ぶ。

当時絶頂期にあったペルシア王国は、イオニア地方にも勢力を拡大しようとしていた。そのペルシア王国の支配に反発し、イオニア地方のポリスが紀元前492年に反乱を起こしたのである。

だがこの反乱は失敗し、ペルシア王国はイオニアを平定し、ギリシア遠征軍の派遣を決定。これがギリシア戦争への発端となったのである。

次々と勝利を収めて勢いづいたペルシア王国だったが、マラトンの戦いでアテナイ・プラタイヤ軍との戦いで敗れると本国に撤退した。

しかし、481年にペルシア王国が2度目の襲来を行うと、ほかのポリスも脅威を抱くようになる。そしてアテナイは、スパルタに働きかけてイストモスで会議を行うことになるのだが、ポリスの中でもペルシア側につく者もあり、ギリシアは決して1枚岩ではなかったのだ。

こうして紀元前480年8月には、スパルタが主力となり防衛していたテルモピレーで闘いが勃発。スパルタはカルネイア祭のため全軍を派遣できず、レオニダス王率いる300人の重装騎兵のみ先遣隊として派遣した。

圧倒的戦力のペルシア軍に対しても、レオニダス王率いる300人の重装騎兵は勇敢に戦い、ギリシア軍は優勢に戦いを進めたのである。

だが最終的に挟み撃ちにあい、レオニダス王の善戦むなしくスパルタは敗北。ペルシア戦争は結局、両者とも決定的な戦果を挙げることなく、紀元前449年に和平が結ばれ終結したのである。

若者教育の一環としてヘイロータイが殺されていた?

軍国主義のスパルタでは、若者教育の一環として、ヘイロータイ殺しが行われていたという記述が、プルタルコスの英雄伝(対比列伝)の中にある。

圧倒的多数にあたるヘイロータイは、しばしば反乱をおこし抵抗していていたので、スパルタ人は武力で厳しく抑えつけなければいけなかった。そのためスパルタの中でも、役人が認めた優秀な若者たちは時々田園を見回り、怪しいヘイロータイを見つけた場合、自由に殺して良いことになっていたという。

若者たちは特に、ヘイロータイの中でも身体が丈夫で力が強い者を殺したという記述だ。ただし、プルタルコスは作家なので、英雄伝の歴史書としての信憑性は疑わしいとも評価されている。

そのためスパルタで若者教育の一環としてヘイロータイが殺されていたかどうかについての信憑性はわかっていない。

ただスパルタでは、子供が産まれると入念な検査が行われ、未熟児や形態に異常が確認されると洞窟に置き去りにするか、崖から投げ落とすように父親は指示される。

乳児はさらにこの検査をクリアしたとしても、その後すぐにワインで洗われてしまい、その時に痙攣を起こしてしまうと、虚弱と判断されて捨てられてしまうのだ。

スパルタ教育では、スパルタ人に産まれても約半数の乳児しか生き延びられない。そう考えれば、奴隷身分で反乱を起こすヘイロータイを自由に殺す教育があったとしても、おかしくはないだろう。

まとめ

今回は軍国主義国家スパルタにおける、身分制度やヘイロータイと呼ばれる国固有の奴隷について紹介した。

支配層のスパルタ市民には特権が与えられていたが、丈夫に産まれなければ生き残れず、また厳しい軍事訓練を受けなければならない。

そうした軍事訓練のおかげで、少数であっても大多数のヘイロータイを支配し、また戦場ではペルシアの大軍を苦しめることができた。

現代よりも死がかなり身近にあった時代で、シビアな世界を生き抜くために編み出されたのが、軍事国家スパルタと言えるだろう。

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