諸子百家とは?時代背景や流派の思想、名言をわかりやすく解説

諸子百家とは?時代背景や流派の思想、名言をわかりやすく解説

諸子百家(しょしひゃっか)に聞き覚えがない人でも、孔子や孟子、孫子は学生時代にテスト勉強した覚えがあるのではないだろうか。孫子を題材にしたビジネス書も多く並んでいることから、諸子百家は現代にも応用できる思想なのかもしれない。諸子百家の成り立ちや流派、名言について解説していく。

諸子百家とは?わかりやすく解説

諸子百家とは、春秋時代(前770年~前403年)・戦国時代(前403年~前221年)に現れ、活躍した多くの思想家を表している。諸子百家の意味は以下のようになるので覚えておくとよいだろう。

  • 「諸」は「多くのもの、様々なもの」を意味
  • 「子」は自分の師を呼ぶときの尊称や敬う気持ちを表す呼称として使われ、「先生」を意味
  • 「百家」は数えきれないほど多くの、独自のゆるぎない考えを持つ人たちの意味

要するに諸子百家とは、「独自の考えを持つ多くの先生」のことである。

諸子百家はなぜ生まれた?

紀元前1027年頃、古代中国では周王朝が成立した。周王朝では各地を治めるために、王子たちや臣下に領土を与え、諸侯としてその領土を統治する制度を取っていた。

しかし周王朝が弱体化するにつれ、各地の諸侯は、自分の領地を整え、勢力を拡大するために争うようになっていった。紀元前770年、周王朝の洛陽への東遷を機に、中国は春秋・戦国時代と呼ばれる乱世にはいる。

そのような中で諸侯は、政治・経済・外交・軍事などで他国に勝つために、競って身分や血統にとらわれないで人材を登用したのだ。そこで様々な思想を説き、活躍したのが諸子百家である。

諸子百家の流派や主な人物

諸子百家は九流(きゅうりゅう)といって、九つの流派に分類される。

陰陽家(いんようか)・儒家(じゅか)・墨家(ぼっか)・法家(ほうか)・名家(めいか)・道家(どうか)・縦横家(しょうおうか・じゅうおうか)・雑家(ざっか)・農家(のうか)である。

ここでは、それぞれの思想と主要人物を紹介するので、参考にしてほしい。

陰陽家

陰陽家は、陰陽五行説を使って自然界における節理や秩序を追究した人たちのことである。

陰陽五行説とは、世の中の森羅万象は木・火・土・金・水に表され、相生(そうしょう)、相克(そうこく)という関係にあるという考え方だ。歴代王朝の交代を五行にあてはめて説明しているのが「五徳終始説」である。

古代中国の人々は、世界には普遍的な法則があると信じており、この陰陽五行説は、特に漢の時代に高く評価されている。

戦国時代後期の、鄒衍(すうえん)が主要な陰陽家として挙げられる。

儒家

儒家とは孔子(こうし)を開祖とし、孔子の思想を継承発展させた思想家だ。「仁」「義」「礼」「智」「信」を説き、家族道徳を守ることによって、国を治め天下を平らかにすることを目指している。

性善説の孟子(もうし)や性悪説の荀子(じゅんし)も儒家の一人である。「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」は五経として漢の時代にまとめられ、儒教は国教として重んじられていき、中華民国の成立(1911年)まで中国民族の精神的、文化的な拠り所となっていた。

墨家

墨家は墨子(ぼくし)が開いた思想家集団だ。元々は城郭の構築や、防御兵器を作る技術者集団であったため、平和や博愛を説くと共に、武装して各地の城を守ったとされている。

すべての人を愛する「兼愛(けんあい)」や、戦争を非難する「非攻(ひこう)」、儒家の贅沢な葬儀を批判する「節葬(せっそう)」など、墨家の十論が墨子の思想の中心となっている。

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墨家だが、戦国時代には儒家と並ぶほどに栄えていた。しかし、秦による中国統一後は衰え、消滅している。

法家

法家は法に定められた賞罰によって、臣下や民を従わせることを説いた。戦国時代は、周の封建制度や、儒家の説く礼によって国を治めることが困難になっていたため、法と権力によって国を治め、富国強兵策を進める必要があったのだ。

秦国では、商鞅(しょうおう)が法治を徹底し、中央集権的な土台を整え、李斯(りし)が始皇帝のもとで法家の実務面を完成させている。なお、韓非子(かんぴし)は、様々な法家思想の理論を集大成した法家の代表的人物である。

名家

名家とは、物事の概念と、その実体を明らかにしようとした論理学派である。巧みな弁舌と鋭い観察を中心に、既成の概念にとらわれない考えを推し進めた。

主要人物の一人である公孫龍子(こうそんりゅうし)は、「名と実は一致すべき」という名実論によって物事の概念を正しく認識し、世の中の秩序を正そうとした。

また恵施(けいし)は、荘子の論敵としても知られている。

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名家の説は詭弁だと批判されることも多かったが、論理学の発展に役立ったとされている。

道家

道家とは、老子・荘子の説いた「道」を行動や判断の基準にした思想である。

老子は「道」を万物の根源、原理とし、人間の知識や欲望が社会を混乱させるので、作為を捨てて自然に生きることを説いており、荘子は、万物のすべてが等しく、名声や功名を求めないことを説いた。

儒家が現実世界の秩序と調和を重んじるのに対し、道家は内面的、思想的な面で執着から解放されれば安らかになるとしている。なお、「道」の思想は民間信仰と結び付いて、道教へと発展していった。

縦横家

縦横家は時勢の変化を察し、諸侯に対して外交政策を説いた集団だ。その巧みな弁舌により、戦国の世を動かしたとされている。

特に蘇秦(そしん)と張儀(ちょうぎ)の合従連衡策は代表的だろう。蘇秦の合従策は、秦に対抗するために南北に連なる斉(せい)、魏(ぎ)などの同盟を実現させ、それに対抗した張儀は、連衡策として個別に秦と同盟を結ぶことを説いて合従策を破ったのである。

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秦に対して六国間の関係を強める縦の合従策と、秦と各国が個別に関係を強める横の連衡策を議論しあった両者をあせて、縦横家と呼ぶようになったとされている。

雑家

雑家は、独自の学説や主張を持たず、儒家、墨家、道家、法家などの学説を折衷して書物にした人たちだ。

代表的な書物には、「呂氏春秋(りょししゅんじゅう)」「淮南子(えなんじ)」がある。呂氏春秋は、秦の呂不韋(りょふい)が、食客の学説をまとめたとされており、儒家を中心に、道家、墨家、法家などの学説を網羅する百科全書的なものだ。

また、淮南子は前漢の劉安が編纂し、道家の思想を基調にまとめられている。

農家

農家は、国の基礎を農業に置くことを唱えて、農業を重視する政策を取るべきだと説いた人たちだ。許行(きょこう)ら農家は、神農という農業神を信仰しており、「君民並耕」といって、君主であっても民と同じように耕作に励むべきだと説いている。

また同じ重さの穀物や、同じ長さの布は同じ値段にすることを主張して、農業を保護しようとしたが、分業をやめたり、物価を統制したりすると天下が乱れると批判され、大きな思想集団にはならなかった。

諸子百家の代表的な名言

ここでは、諸子百家が残した代表的な名言をいくつか紹介する。現代社会でも応用できる名言となっているので、参考にしてほしい。

荘子:【荘周(そうしゅう)夢に胡蝶と為る】

荘周(荘子)が蝶になる夢を見たて目覚めた際、「自分は荘周であり夢の中で蝶になったのか、自分は実は蝶であり、今夢の中で荘周になっているのか」と口にしたことから生まれた言葉。人は夢と現実を明確に分け、現実こそが真の世界だと認識している。しかし、夢・現実を含めたあらゆる物事に対して区別を設けず、混然一体と認識すべきではないかと説いている。

老子:【大器は晩成す】

老子は、理想とする「道」の例えとして「大器」という言葉に置き換えている。道は常に現象の背後に隠れていて、見ることや聞き取ることができず、なんの役にも立たないように見えるが、実は、万物に力を与える不思議な存在である。そして大きな器もなかなか完成せず、なかなか役に立たないと思われがちだが、完成していないからこそ限りなく大きくすることができ、かつ柔軟にあらゆる用途に役立てることができると説いている。

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現在では「道」ではなく人の器量の例えとして用いられ、「将来大人物になるような人は大成するのが遅い」という意味で使われている。

孫子:【兵は詭道(きどう)なり】

戦争の本質は、騙すこと(詭道)とした孫子の兵法だ。正々堂々と衝突するより詭道をうまく用いたほうが、自国の戦力消耗を防ぐことができるだけでなく、敵の被害も最小限となり、勝利後に多くの人的・物的資源が得られると説いている。

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中国における古い形式の戦争は、事前に開戦の日時を申し合わせ、見通しの良い平原に両軍が布陣したのち、正々堂々と行われた。しかし、それでは両軍に大きな被害がでてしまうのだ。

韓非子:【人主にも亦た逆鱗(げきりん)あり】

逆鱗とは元々、「龍の喉にある逆さの鱗」のことである。龍は、うまく飼いならせば乗ることもできるが、逆鱗に触れると殺されてしまう。これと同様に、君主もうまく取り入れば親しんで優遇してもらえるが、触れてほしくない部分を刺激すれば、自分の身が危うくなるとし、「君主に意見を述べるときは、決してその逆鱗に触れないようにすべき」と説いている。

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このエピソードから「逆鱗」という成語が生まれ、現在では「逆鱗に触れる」=「目上の人の激しい怒りを買う」のように用いられている。

孟子:【五十歩を以て百歩を笑わば、則ち如何(いかん)】

現代でも使われる「五十歩百歩」の元となった孟子の言葉だ。慣用句としては、「多少の違いはあるが、本質的には同じこと」の意味で使われる。

この言葉は、梁の国の恵王と孟子の間で以下のようなやり取りが行われた際に誕生したと言われている。

  • (恵王)「自分は民のためにいろいろと配慮して政治を行っているのに、なぜ隣国の民が私の国へと移動し、私の国の民が増えないのだろうか。」
  • (孟子)「戦場から五十歩逃げた兵士が、百歩逃げた兵士を笑ったならばどう思いますか」
  • (恵王)「歩数は多少違うが、逃げたことには変わりない。」
  • (孟子)「つまりそういうことです。この国がやっていることも、隣国がやっていることも(王道ではないため)、民からすると大して相違ないことなのです。」

ちなみに、恵王の答えが、現在の五十歩百歩の意味となっている。

まとめ

春秋・戦国時代の乱世に現れた、多くの思想家を総称して諸子百家という。諸子百家は各地の諸侯や、人々を治める立場にある人に向けて自説を説いて回り、大きな影響を与えた。

また、バラエティに富んだ思想は、時代を超えて、現代に生きる我々にも語りかけている。古代中国で天下を平らかにすることを願いながら、諸侯へ己の主張を説いた諸子百家の思想は、現代においても人々を魅了するのだ。

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