インド大反乱(シパーヒーの乱/セポイの乱)~反英闘争のきっかけとなったシパーヒーによる大反乱

インド大反乱(シパーヒーの乱/セポイの乱)~反英闘争のきっかけとなったシパーヒーによる大反乱

インド大反乱(シパーヒーの乱/セポイの乱)とはシパーヒーによる反乱がきっかけとなった反英闘争だ。1600年に始まったイギリス東インド会社によるインドへの圧力は年を追うごとに増し、これまで築いていたインド社会を壊していった。本記事では、インド大反乱について解説する。

インド大反乱(シパーヒーの乱/セポイの乱)とは?わかりやすく解説

インド大反乱とは1857年にイギリスの東インド会社に雇われたインド人の傭兵(シパーヒー/セポイ)が、北インドのメーラト市で蜂起したのがきっかけとなった反乱であるため、シパーヒーの乱、セポイの乱とも呼ばれている。

反乱の原因とされているのが、新式銃の弾薬包に牛と豚の脂が使われているという噂だった。多くの基地のシパーヒーが反乱を起こし、デリーでムガル皇帝を擁立した。これを機に旧王侯や旧地主、農民、市民も反乱を起こし、北インドを中心に反英運動は広がりを見せたが1859年に鎮圧された。

当時インドを支配していたイギリス側が、宗教や階級の枠を超えた反乱だったことを隠すために、インド人傭兵を意味するシパーヒーを強調してシパーヒーの乱と呼んだのだ。

またセポイの乱は主に日本で使われていたが、セポイとはペルシア語で兵士を意味し、インド人傭兵が起こした反乱となる。

この反乱は単にシパーヒーだけのものではなく、インドの人々による民族的な反乱であり、独立戦争でもあったので、今日ではインド大反乱と呼ばれるのが一般的になっている。

インド大反乱(シパーヒーの乱/セポイの乱)が起こった原因

ここでは、インド大反乱(シパーヒーの乱/セポイの乱)が起こった原因について説明する。

新式銃の弾薬包の問題

インド大反乱のきっかけとなったのは、シパーヒーが使う新式銃(エンフィールド銃)の弾薬包に牛脂・豚脂が塗られているとの噂だった。銃に装填するためには、その弾薬包を歯で噛み切らなければならず、それはシパーヒーたちにとって宗教的に許されないことであった。

ヒンドゥー教徒は牛を聖なるものとしているので、牛脂を口にすることはできない。加えて、イスラム教徒(ムスリム)は豚を汚れているものとしているので、豚脂を口にするのは我慢できないのだ。彼らの信仰を否定され、尊厳を傷つけられたために強い反発が生じたのである。

藩王国取りつぶし政策

東インド会社は、直系の後継ぎのいない藩王国の領土を没収するという政策(失権の原理)を強化した。サーターラー、ジャーンシー、ナーグプルなど藩王国を次々とイギリスの直轄地としていった。

またアワド藩王国を内政干渉して取りつぶしたのだ。これらの取りつぶしにより、藩王国の貴族や役人、軍人、市民等は失業し路頭に迷うことになったのである。

土地政策

東インド会社は、ザミンダーリー制やライヤットワーリー制といった土地にかかる税制度を実施した。これにより地税を滞納した地主や農民は所有地を失い、多数の農民が土地を持たない小作人になってしまったのだった。

シパーヒーの給与の問題

インドはインフレと物価高騰が起こっていたが、シパーヒーの給与は据え置かれたままだった。またキリスト教に改宗した者が昇進するなどの宗教政策がとられていたため、不満が蓄積していた。

シパーヒーの海外出征に関する問題

ヒンドゥー教の最高カーストでは海を渡るとカーストを失うとされていた。そのため1824年、ビルマへの出兵を拒否して蜂起した。反乱はたちまち鎮圧されたが、その後も遠征をめぐるいざこざは絶えなかった。1856年には新規志願兵にはいかなる勤務地へも赴くことを義務付けたが、シパーヒーたちは信仰や慣習への挑戦であると対立していた。

織物工業の衰退

イギリスは産業革命により量産された、安価な綿製品をインドへ輸出していった。またインド製品の着用禁止令もあったため、インドの織物工業は衰退し、職を失った人々があふれていた。

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様々な要因が重なり、階層や職業に関係なく大勢のインドの人々が、イギリスへの反感をつのらせていたのである。

インド大反乱(シパーヒーの乱/セポイの乱)の経過

反英闘争のきっかけとなったインド大反乱の経過を説明するので、参考にして欲しい。

シパーヒーによる反乱が発生

1857年5月10日、北インドのメーラトでシパーヒーによる反乱が発生した。シパーヒーは武器庫から武器を手に入れ、牢獄から仲間を救出すると、「信仰を守る戦いに立ち上がれ」と人々に訴えた。

そして群衆と一緒になってイギリス人居住区を襲い始めたのだ。その後、デリーへ向かった反乱軍は現地のシパーヒーたちを味方につけ、デリーを占拠。シパーヒーたちはムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を最高指導者として擁立し、ムガル帝国によるインド支配の回復を唱えたのである。

反乱がインド全域へ拡大

各地では身分や宗教に関係なく、農民から領主まであらゆる階層が、英国支配に対する反乱を起こしていた。

バレーリーやジャーンシーは旧来の支配層が反乱政権を樹立し、ジャーンシーの王妃、ラクシュミー・バーイーは自ら軍を指揮して戦い、インドのジャンヌ・ダルクと呼ばれている。

カーンプルでは、ナーナー・サーヒブを立てて戦った。特にアワド周辺は、前年に併合されたばかりで反乱の勢いが激しかったと言われている。

また農村においては、大地主を中心に蜂起し、地税をイギリスへ納めることを拒否したところもあったようだ。反乱は北インドを中心に、インドのおよそ3分の2の地域に拡大していったのである。

イギリス軍による反撃

デリーを占拠した反乱軍内部では対立が生じていた。指揮を取る者がなく、まとまりに欠けていたのだ。それはシパーヒーたちが高位高官になれず、イギリス人に仕える兵士としての経験しかなかったからと言えるだろう。

またシパーヒーの駐屯地域ごとにまとまりやすい性質や、デリーに入城した日によって様々な条件が異なったことにもよる。特に弾薬と食料をめぐる対立が激しくなっていき、反乱に失望したシパーヒーはデリーを離れていく者もあった。

対するイギリス軍は周辺民族や旧支配階級を味方につける政治工作を行い、大半の藩王国を懐柔することに成功していた。シパーヒーの離脱による兵力不足はボンベイ、マドラスの両管区から招集したり、ネパールのグルカ兵などを雇ったりすることで補ったとされている。さらに、シク教徒を味方に付けることに成功したイギリス軍は、準備を整え、大砲などの近代装備を用いてデリーを総攻撃した。

反乱の鎮圧

1857年9月、デリーは陥落し、バハードゥル・シャー2世は退位させられ、追放となった。ムガル帝国はここに滅亡。デリーの反乱は4か月しか続かなかったのだった。

反乱軍は指揮系統を欠き、横の連携も取れず、内部の対立やヒンドゥーとムスリムの対立もあり、まとまりがなかったことが敗因と言えるだろう。

デリー陥落後、1年以上も各地でインド大反乱は続いた。カーンプル、アワド、ビハールなどで反乱地方政権が成立し、イギリス軍と対抗していた。インドのジャンヌ・ダルクと呼ばれた、ラクシュミー・バーイー王妃は激しく抵抗を続け、イギリス軍を苦戦させたが、1859年にインド大反乱はすべて鎮圧されたのである。

インド大反乱(シパーヒーの乱/セポイの乱)の結果と影響

1859年、反乱軍はすべて個別に撃破され、インド大反乱は鎮圧されたわけだが、イギリス側の死者数は400人にのぼり、女性や子どもも銃撃されたのだった。なお、インド側の死者数は10万人以上と考えられている。

多くの犠牲を出したインド大反乱だが、どのような影響があったのだろうか?以下、インド大反乱がもたらした影響を解説する。

インドにおける影響

インド大反乱によりバハードゥル・シャー2世は廃位され、ムガル帝国が滅亡した。インド大反乱は、インドにおける民族意識の高まりと反英闘争のはじまりであり、インド独立の第一歩と言えるだろう。

インド大反乱(シパーヒーの乱/セポイの乱)~反英闘争のきっかけとなったシパーヒーによる大反乱toku168

イギリスによるインドの統治は、1947年の独立まで続いている。インド大反乱(シパーヒーの乱/セポイの乱)が鎮圧されてからも、インド独立の戦いは約90年続いたのだ。

イギリスにおける影響

インド大反乱によって、イギリス本国は東インド会社による統治能力の限界を認識し、東インド会社を解散させた。イギリス本国より官僚や軍隊を派遣してイギリス政府が統治をはじめたのである。そして1877年にヴィクトリア女王を皇帝としたインド帝国が成立し、1947年まで植民地支配を続けたのだった。

まとめ

インド大反乱はシパーヒーの蜂起からはじまり、またたく間に多くの民衆の支持を得て広まっていったが、1年で鎮圧されてしまった。シパーヒー達の中に、統率力のある人物がいなかったことや、先を見通した戦略が立てられなかったことが敗因として考えられる。

しかしインド大反乱は、ヒンドゥー教やムスリムの宗教の違い、王侯・地主・農民などの身分の壁を越えた反英運動のはじまりである。これまで民族や宗教の違いのため反目していた人々に、民族意識が芽生えた歴史的なできごとだと言えるであろう。

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