インドネシアはどこの植民地だったのか?独立までの歴史をわかりやすく解説

インドネシアはどこの植民地だったのか?独立までの歴史をわかりやすく解説

インドネシアは、オランダや日本による植民地支配時代を経て、独立を果たした国だ。特にオランダによる支配は300年以上に渡っている。今回は、そんなインドネシアの成り立ちや、オランダによる植民地支配と脱却、日本との関係についても説明していく。

インドネシアの成り立ち

インドネシア共和国が1つの国として認識されるようになったのは、第二次世界大戦後にインドネシアが独立宣言をしてからなので、割と最近のことである。

少なくとも70以上の民族から構成されるインドネシアは、多民族共同体の国家なのであった。そんなインドネシアが1つの政治の共同体として統一されたのは、17世紀に建設が始まり、20世紀初頭に完成したオランダ領東インド会社の時代からである。

ヒンドゥー文化と仏教文化の伝来

インドネシアには紀元前1世紀頃から、インド洋を渡ってインドの商人が訪れるようになっていった。

ヒンドゥー教は、その頃にインドの商人によって伝えられたのである。そしてヒンドゥー教の影響を受けた独自の文化が発達していき、5世紀頃にはボルネオ東部にクタイ王国、西部ジャワにタルマヌガラ王国が発展し始めたのだ。

クタイ王国は中国やフィリピンに抜ける交易ルートに位置していたため、インドからの船が寄港し、中継貿易の利益を享受し、発展していったのである。

一方、仏教文化はヒンドゥー教文化が栄えた後の7世紀~11世紀にかけて、スマトラ島南部バレンバンを本拠とするシュリーヴィジャヤ王国(7世紀-13世紀)がマラッカ海峡を制圧し、南海貿易をコントロールしたため、繁栄を極めた。

イスラム教の伝播

13世紀末頃、東南アジアの諸王朝ではイスラム教が受け入れられるわけだが、それに先立ち、11世紀末頃から東南アジアの諸王朝には、ムスリム商人の伝来が始まっていた。

その頃からムスリム商人は支配者層と密接な関係を築いており、ヒンドゥー教国だったマジャパヒト王国でも、11世紀末期に王クルタウィジャヤが、ムスリムの公主を息子の后に迎え、民衆にもイスラム教への改宗を容認したのである。

また、ジャワ島におけるイスラム国家は、15世紀末に建国されたドゥマク王国から始まった。16世紀前半にドゥマク王国は、マジャパヒト王国を倒して、とうとうジャワ島で初めてのイスラム教国家となったのである。

ジャワ島西部でも、ドゥマク王国の支援を受けたバンテン王国がイスラム教を受容し、ジャワ島全域でイスラム教が浸透していった。

ジャワ島で活発な布教を行ったのは、スーフィー聖者たちであり、彼らは一般のジャワ人の子弟に教育を行い、民衆レベルでイスラム教を浸透させたのである。

スマトラ島では、15世紀末にアチェ王国がイスラム化し、16世紀前半にはマラッカ海峡に面するスマトラ東岸のほとんどがイスラム教に改宗。こうしてインドネシアの広範囲に渡りイスラム教が拡大していったのだ。

インドネシアはどこの植民地だったのか?独立までの歴史をわかりやすく解説toku168

ちなみに、イスラム教の布教をおこなったスーフィー聖者たちはワリ・サンガ(九聖人)と呼ばれ、現在でも崇敬されている。

オランダによるインドネシアの植民地化

オランダやヨーロッパ諸国がアジアに進出してきたのは、15~16世紀の大航海時代だ。ヨーロッパ諸国は、食生活に不可欠だった香辛料の獲得のため、栽培に適した気候のインドや東南アジアに次々に進出したのである。

インドネシアには、1596年、オランダの商船隊がジャワ島西部に来航し、1602年にはオランダ東インド会社(VOC)を設立したのである。ここからオランダによるインドネシアの、300年以上に渡る植民地支配の時代が始まったのだ。

民族主義の目覚め

オランダによる植民地支配は、インドネシアの人々にとって過酷な環境だった。家畜のように働かせられたうえ、利益率の高いものを作らせた結果、米や小麦畑の数も減り多くの地域で飢餓が発生した。

また、オランダが愚民化政策(インドネシア人に知識を与えない)を取ったために、インドネシア人は独立心の芽生えも抑制されていたのである。

そんなインドネシアにも、20世紀初頭には民族主義が目覚めだした。ジャワ島では1908年に知識人が中心となってブディ・ウトモを結成し、植民地政府と協調しながら、原住民の地位向上を求める運動を行ったのである。

1910年代にはイスラム教大衆団体のサレカット・イスラムも東インドで大規模な大衆動員に成功し、1920年代にはインドネシア共産党が、植民地政府と激しく対立した。

そして1927年には民族独立(ムルデカ)を掲げたスカルノが、インドネシア国民党を結成したのである。こうしてインドネシアの民族主義は最高潮に達したのだ。

インドネシアはどこの植民地だったのか?独立までの歴史をわかりやすく解説toku168

ちなみに、インドネシアではブディ・ウトモが結成された1908年5月20日を民俗覚醒の日としている。

日本軍の侵攻とオランダ支配からの解放

インドネシア独立のきっかけとなったのは、太平洋戦争だ。1942年に日本がインドネシアに上陸し、わずか2ヵ月でオランダ軍を無条件降伏させたのである。

1939年に第二次世界大戦が勃発し、オランダ本国はナチスドイツに占領された。アジアでは日中戦争が起こり、アメリカやイギリスは日本にも厳しい態度で臨むようになったのである。

インドネシアのオランダ植民地政府も、日本への貿易規制であるABCD包囲網に加わった。そのため、日本軍は資源(特に石油)と労働力を得るためにインドネシアへ侵攻したのだ。こうしてインドネシアはオランダによる植民地支配から開放されることになる。

日本軍によるインドネシアの植民地支配

1942年3月から3年に渡り、日本が統治したインドネシアでは、日本軍をオランダからの解放者として歓迎していた。オランダ植民地政府が禁止していた「インドネシア」の呼称を解禁したことも大きいだろう。

しかし、日本軍はオランダ植民地政府同様に、政治に関する言論、行動を禁止した。また厳しい戒律の日本式の軍政が施されたことや、飢饉を招いた籾の供出、重労働を課せられた者もあった。

そのため対日感情は次第に悪化していった。組織的な反日運動こそなかったが、事実いくつかの反日抵抗運動は起こっていたとされている。

ただオランダ植民地政府とは違い、エリートだけではなく庶民にも教育政策を行い、教授用語をインドネシア語としたことは、インドネシア人のアイデンティティにとって大きな変化となったのである。

インドネシアはどこの植民地だったのか?独立までの歴史をわかりやすく解説toku168

日本軍の支配のほうが厳しかったとされる説もある。

インドネシア独立を承認する動き

大東亜共栄圏という大義を掲げて、インドネシアを含む東南アジアに侵攻した日本軍だったが、占領後もインドネシアの独立を認めることはなかった。

しかし、1944年の3月に、イギリス・インドの主要拠点である、インドのインパール攻略を目指したインパール作戦が行われ、歴史的な大敗北を喫して日本軍は壊滅状態となってしまう。

インパール作戦の失敗により、日本軍はインドネシアの独立を承認する方針に転換。1944年9月にはインドネシア国旗の掲揚と国家の斉唱を解禁した他、1945年3月には独立準備委員会を発足させた。

同委員会は同年8月にスカルノとハッタ、ラジマンによって独立宣言するという方針を決定し、軍政当局や日本政府もこれを承認したのである。

インドネシア独立戦争とその結果

1945年8月15日に、日本は連合国に降伏し、太平洋戦争は終結した。太平洋戦争が終結すると、2日後の8月17日にスカルノら民族主義者はインドネシアの独立を宣言し、スカルノが初代大統領に就任した。

だがオランダはインドネシアの独立宣言と、スカルノ大統領の就任を無効とし、植民地支配の再開を願って戻ってきたのである。そして1945年から1949年の4年間に渡り、インドネシアはオランダと独立をかけて戦い、その結果インドネシアは独立を勝ち取ったのだ。

単一のインドネシア共和国が樹立

インドネシアの独立戦争後の外交交渉によって、1949年12月にインドネシア連邦共和国が誕生。翌1950年8月15日には、連邦構成国の1つであるインドネシア共和国に、他の全ての構成国が合流して、単一のインドネシア共和国が樹立したのだ。

インドネシアはどこの植民地だったのか?独立までの歴史をわかりやすく解説toku168

インドネシア共和国が樹立した8月15日は、インドネシアの記念日として、現在も祝祭日になっている。

まとめ

今回はインドネシアの宗教や、独立の歴史について紹介した。素晴らしい文化を持つインドネシアだが、オランダ(日本統治も含む)の植民地支配では多大な苦難を味わってきた歴史がある。

しかし、インドネシアはオランダと日本による植民地支配を経て、遂に自らの力で独立を成し遂げたのである。インドネシアの独立は、人々の知恵と勇気が成し遂げた大きな偉業と言えるだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です