イタリア戦争~「主権国家と勢力均衡」が生まれた戦い

イタリア戦争~「主権国家と勢力均衡」が生まれた戦い

イタリア戦争は、16世紀頃にイタリアの支配権を争った戦争だ。ヨーロッパ各国を巻き込んだこの戦争は、後の時代に多くの影響を与えた。本記事ではイタリア戦争の経緯と結果のほか、後世や文化に与えた影響についても解説する。

イタリア戦争とは?わかりやすく解説

イタリア戦争とは、16世紀頃にイタリアの支配権を巡って起こった戦争である。主に神聖ローマ帝国を支配するハプスブルク家と、フランスを支配するヴァロワ家との争いであるが、戦争の激化に伴って教皇領やイタリアの都市国家、ヴェネツィア共和国、イングランド、スコットランド、スペインといった西ヨーロッパの国家のほとんどが参加することとなった。

また、イタリア戦争は近代的な軍隊が組織されるようになった初めての戦争であり、近代ヨーロッパの始まりと評価されている。

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イタリア戦争は、「イタリア大戦争」、「ハプスブルク・ヴァロワ戦争」、「ルネサンス戦争」などの別名でも呼ばれている。

イタリア戦争はいつからいつまで?

イタリア戦争の期間には諸説あり、一般的には1494年のフランス王シャルル8世のナポリ遠征から1559年のカトー=カンブレジ条約での講和締結までとする説が有力である。

だが、1521年に始まったフランソワ1世(フランス王)とカール5世(神聖ローマ帝国皇帝)との戦闘から、1544年にグレビーの和約で両者が単独講和を結ぶまでとする説も存在する。

イタリア戦争が起こった原因と背景

イタリア戦争の原因は、ナポリ王国とミラノ公国の継承権争いである。14世紀に行われた百年戦争で疲弊していたフランスは、15世紀末、シャルル8世によって再統一された。フランス王シャルル8世は勢力を拡大するハプスブルグ家(神聖ローマ帝国)に対抗するため、イタリアの領有化を目論んでいた。

ナポリ王国では、1489年にナポリ王フェルディナンド1世がローマ教皇イノケンティウス8世と対立し破門処分を受け、フランス王シャルル8世がナポリ王に推薦されている。1492年にナポリ王家とローマ教皇の間で和睦が成立するが、フランス王シャルル8世はその後もナポリ王家に対して王位を要求し続けた。

またミラノ公国では、1494年にルドヴィーコ・スフォルツァが公位を継承したが、ナポリ王アルフォンソ2世が反対したため、ナポリ王家と対立しているシャルル8世に支援を要請したのだ。この結果シャルル8世のナポリ遠征が開始され、第一次イタリア戦争が勃発するのである。

イタリア戦争の経緯

イタリア戦争の経緯を時系列で順番に説明するので、参考にしてほしい。

1494年~1498年
第一次イタリア戦争
1494年にフランス王シャルル8世がナポリの継承権を主張し、イタリア遠征を開始。1495年5月にはナポリ王国のほぼ全土を占領したが、教皇アレクサンデル6世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、スペイン(アラゴン)のフェルナンド2世、ヴェネツィアが「神聖同盟」を結び対抗した。さらにミラノ公国がフランスを裏切り神聖同盟に参加したために、シャルル8世は撤退を決定した。
1499年~1504年
第二次イタリア戦争
シャルル8世の後を継いでフランス王となったルイ12世がミラノ公国の継承権を主張して遠征を開始。スペイン王国、ヴェネツィア共和国と同盟しミラノ公国の併合に成功し、ナポリに侵攻するも、スペイン王国の裏切りにより敗北する。1503年にはスペイン王国がナポリを征服。翌年1504年のブロワ条約により休戦し、フランスはナポリを放棄する。
1508年~1516年
カンブレー同盟戦争
1508年にローマ教皇とフランス王、神聖ローマ皇帝、スペイン王の間でカンブレー同盟が成立。しかし1510年に崩壊し、ローマ教皇とヴェネツィアの神聖同盟によって1512年にはフランスはイタリア半島から撤退する。その後ヴェネツィアは同盟を離反し、1515年にフランスとヴェネツィアの同盟軍は領土奪還に成功。1516年に結ばれた条約でイタリア半島は1508年の開戦前の状態に復帰することが決定した。
1517年
ウルビーノ戦争
カンブレー同盟戦争でフランスとヴェネツィアが教皇に勝利したのに乗じて、破門されウルビーノ公位から追放されたフランチェスコ・マリーア1世が1517年に公国を奪還する。フランチェスコ・マリーア1世は傭兵を雇い、教皇軍に対して優位に戦争を進めて進軍するも、資金繰りに困って同年9月に和平条約が結ばれた。
1519年
神聖ローマ皇帝選挙
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の死後、孫のスペイン王カルロス1世(ハプスブルグ家)とフランス王フランソワ1世(ヴァロワ家)が皇帝選挙で争った。勝利したカルロス1世が神聖ローマ帝国皇帝カール5世として1519年に即位し、スペイン王と兼任した。

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結果、フランスは東西をハプスブルグ家に挟まれてイタリア半島へと進出する。
1521年~1526年
第三次イタリア戦争
ローマ教皇レオ10世と神聖ローマ帝国皇帝カール5世がマルティン・ルターの宗教改革に対抗するために同盟を結んだため、1521年にフランス王フランソワ1世がナバラ王国とネーデルランドに侵攻。1525年にフランソワ1世は大敗して捕虜となり、1526年にマドリード条約でイタリア、フランドル、ブルゴーニュ公国を全て放棄して終結したが、解放後に条約の履行を拒否してすぐに戦争を再開した。
1526年~1529年
コニャック同盟戦争
1526年、教皇クレメンス7世がフランス王国、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、フィレンツェ共和国、イングランド王国とコニャック同盟を結びイタリアへ侵攻を開始。神聖ローマ帝国皇帝カール5世とイタリアを巡って争うが、最終的にカール5世が勝利した。

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コニャック同盟戦争により、イタリアにおける神聖ローマ帝国(ハプスブルグ家)の優位が確定する。
1536年~1538年
第四次イタリア戦争
1536年に神聖ローマ帝国皇帝のカール5世がミラノ公位を継承。イタリアへの影響力の増大を危惧したフランス王フランソワ1世はオスマン帝国と同盟してイタリアへの侵攻が始まった。フランスが比較的優位に戦争を進め、1538年にニースの和約で戦争が終結する。この後、スペイン(ハプスブルグ家)がイタリアの統制を強めたためにイタリアの独立は終わった。
1542年~1546年
第五次イタリア戦争
1542年にフランス王国は再びオスマン帝国と同盟し、神聖ローマ帝国に宣戦を布告。神聖ローマ帝国はイングランドと同盟するが、資金不足と宗教問題で戦争継続を断念。1544年にグレビーの和約でフランス王国と神聖ローマ帝国が単独講和し、1546年にフランス王国とイングランドでアルドレスの和約が成立し戦争は終結した。
1551年~1559年
第六次イタリア戦争
フランス王フランソワ1世の後を継いだアンリ2世が神聖ローマ帝国に宣戦を布告。フランス(ヴァロワ家)によるイタリア再征服を目指したが、軍事費の増加に耐え切れず1557年にフランスとスペインは破産を宣告する。1559年にカトー・カンブレジ条約が締結されイタリア戦争は終結した。

イタリア戦争の結果

1559年のカトー・カンブレジ条約において、フランス王国がイタリアへの請求を取り下げたため、イタリア戦争は完全に終結した。

フランス王国(ヴァロワ家)は領土拡張に成功したが、イタリアの都市国家群はほぼ全てがスペイン(ハプスブルグ家)の統制下におかれ、結果としてヨーロッパにおけるハプスブルグ家の覇権が決定的になったのだ。

イタリア戦争が与えた影響

イタリア戦争が世界に与えた影響として、以下の3つが挙げられる。

「主権国家」のはじまり

それまでの戦争では騎士や傭兵が戦場の主役であったが、イタリア戦争で軍事組織の改編が進み、常備軍が組織されるようになった。

常備軍を維持するために軍事費の負担が増加し、財源を確保する必要が生まれ、官僚制度が発達していく。これが後世の「主権国家」形成の始まりだと言われ、フランスとスペインを中心に各国へと波及していった。

「勢力均衡」の基本原則が成立

シャルル8世以降、イタリア戦争におけるフランス王国の基本方針は「ハプスブルグ家に対抗するために他者と同盟する」というものだ。後にその考え方は、大国同士の軍事力のバランスを維持することで国際秩序を保つという「勢力均衡」の秩序モデルの基本的な概念になっていった。

ルネサンス文化への影響

イタリア戦争はルネサンス文化にも影響を与えている。イタリア戦争が始まる前のイタリアではルネサンス文化が発達していたが、イタリア戦争により各国は疲弊し、イタリアでのルネサンス文化は衰退していった。以降、ルネサンス文化の中心はアルプス以北の国家に移っていく事となる。

まとめ

イタリア戦争の時期は諸説あるが、長きにわたりにイタリアの支配権を巡って起こった戦争であることは間違いない。イタリア戦争は近代ヨーロッパの始まりとされる戦争で、官僚制度や勢力均衡の概念など後世に多大な影響を与えた、時代の転換点だったと言えるだろう。

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