日本が宦官制度を取り入れなかった理由は?去勢した男性の特徴も紹介

日本が宦官制度を取り入れなかった理由は?去勢した男性の特徴も紹介

宦官といえば中国や朝鮮のイメージが強いが、世界の各地に存在していた。しかし日本では宦官制度は取り入れられなかった。本記事では宦官の特徴や、なぜ日本が宦官制度を取り入れなかったのかについて解説する。

宦官はどんな人?

宦官は去勢された男性で、後宮に出入りして皇帝などの身の回りの世話をしていたとされている。去勢とは生殖腺を切り取り生殖機能をなくすことを意味しており、宦官になるためには性器を切除しなければならなかったのである。

去勢の方法はいくつかある。

清国では、まず紐で下腹部と股の上部をかたく結び、胡椒を入れた熱いお湯で洗ってから、刃物で陰茎と陰嚢を切断した。そして尿道に栓を入れて、傷口には冷水にひたした紙をかぶせて手術は終わる。

その後男性は2、3時間部屋を歩き回ってから横になるが、水を飲むことは許されず、3日後に尿道の栓を抜くと噴水のような尿が出て手術成功となるのである。

古代エジプトでは、細い糸で性器を強く縛り、カミソリで結んだところから先を切り落としたそうだ。灰や熱い油を使って止血され、尿道を確保するために金属の棒が入れられた。その後5、6日間は、へその辺りまで熱い砂に埋められたそうだ。

南インドでは手術前にアヘンが使われていた。性器を竹にはさみ、竹に沿ってカミソリで切断した。切断したところには油をひたした布があてられ、手術をされた男性は寝たまま乳を飲んで栄養をつけて傷が癒えるのを待った。

古代エジプトでは手術後60%もの確立で亡くなったと伝えられているが、南インドや清国ではほとんど失敗することはなかったらしい。

宦官の容姿や肉体的特徴

宦官の容姿や特徴について、中国の宦官の研究者であるイギリス人のステントの手記に残されているものを紹介する。清国末期の宦官の特徴である。

宦官は遠くからでも一目でわかると言われたほど、容姿に特徴があった。髪型は辮髪で宦官帽をかぶり、グレーの長い上着と紺色の短い上っ張りを着て黒いズボンをはき、前かがみに小股でちょこちょこと歩いた。宦官の中には、男装をした若い女性もいたが、全体的にはあまり良い感じとはいえない顔立ちであった。

宦官の肉体的な特徴としては、まず男性の声ではなくなることが挙げられる。

子どもの頃に去勢した場合は若い女性のような声になるが、成人してから去勢した場合は金切り声をあげている女性のような、耳障りな裏声になった。そして徐々にひげがなくなり、つるりとした顔になった。子どもの頃に去勢したなら、ひげは生えないのだ。また、特有のいやな臭いがした。

若い時に去勢した宦官はどっしりと太るが、年を取ると肉が落ち、しわが目立つようになって実年齢より老けて見えた。

宦官はどうやってトイレをしていた?

去勢すると尿の出る方向を調整できず飛び散るようになるので、宦官は女性のように座位で排尿していた。また尿意のコントロールができなかったり、頻繁に尿意をもよおしたりするので、尿を漏らしてしまうこともあったそうだ。

また、宦官は半里も先からにおうと言われていたのは、失禁しても下着を取り替える余裕もなく、寝小便をすることも少なくなかったからだと考えられる。

日本には宦官がいなかった?

日本は中国の文化を多く取り入れているが、宦官はいなかったのである。

日本では江戸時代の大奥が宦官のいた後宮と位置づけされるが、大奥には宦官はいなかった。また琉球王国のドラマ「テンペスト」には宦官が登場するが、宦官制度はなかったのである。

日本で宦官制度が取り入れられなかった理由

日本には宦官はいなかった。その理由について説明しよう。

日本は島国で、異民族を征服することがなかったのが理由のひとつとして挙げられる。もともと宦官は、異民族の捕虜を去勢して奴隷としたのがはじまりであるため、島国の日本では去勢する要素がなかったと考えられる。

日本では宦官制度を輸入しなかった。

日本は数多くの唐の文化を輸入しており、刑法については笞刑、杖刑、徒刑、流刑、死刑を取り入れたが宮刑は入っていない。宮刑とは去勢する刑罰であり、宮刑を受けた罪人が宦官になったのである。宮刑は隋の時代に廃止されたこともあるが、日本は文化を輸入する際に、無制限に取り入れた訳ではなかったとも言えるだろう。

そして仏教文化の影響もあり、日本では残酷な仕打ちを嫌ったと考えられる。

さらに日本では稲作を中心とした農業を行っており、畜産業がほとんど存在しなかったことも理由として挙げられる。動物を去勢する知識や技術がなかったので、人間に対する去勢も行われなかった。

江戸時代の大奥は後宮と同様に考えられるが、大奥では宦官は必要なかったのである。なぜなら大奥を作った春日局が、大奥総取締役として仕切る能力があったからだ。春日局は将軍家光の乳母で、家光にも意見できる立場であり、家光が女性に興味を示さなかったことも影響しているようだ。

また江戸時代以前は、通い婚と言って殿様は正室、側室にかかわらず一緒に住む習慣がなかった。女性は実家で保護されていたことが、宦官が必要なかった理由のひとつとして考えられる。宦官は後宮に出入りするため、皇后や宮女たちと間違いを犯すことのないようにという意味合いが強かったのだ。

宦官は世界中に存在した

日本では宦官制度は取り入れられなかったが、世界中で宦官の存在が確認されている。

  • 中国:殷の時代から清の最後の皇帝が追放される1924年まで
  • 朝鮮:高麗の時代から1894年の甲午改革で廃止されるまで
  • メソポタミア:シュメール・アッカドの時代
  • オリエント:アケメネス朝ペルシアの時代
  • ギリシア・ローマ:古代から東ローマ帝国の衰退まで
  • トルコ:オスマン帝国の時代
  • エジプト:古代エジプト
  • 南米:インカ帝国
  • ヨーロッパ:各地

中国

中国では、前1300年頃の殷の時代より宦官の存在があったことが、甲骨文字にあらわされている。そして1924年に最後の皇帝溥儀が紫禁城から追放されるとともに、宦官もその歴史を閉じた。

朝鮮

朝鮮では、918年から始まる高麗において宦官制度があった。去勢した国民を中国王朝へ貢物としたことも記録に残っている。1894年の甲午改革で宦官制度は廃止された。

メソポタミア

メソポタミアにおいては、シュメール・アッカドには宦官がいたことがわかっている。戦争によって捕虜になった兵士は去勢されて奴隷になった。シュメール語には宦官を意味する言葉があり、アッカドではひげのない宦官のレリーフや記録が残されている。

オリエント

古代オリエントのアケメネス朝ペルシアでは、クセルクセス1世に仕える宦官の話がヘロドトスの「歴史」に記されている。ペルシアでは去勢された捕虜や少年を売買していたようだ。

ギリシア・ローマ

古代ギリシアやローマ帝国では宦官制度が用いられていた。またギリシア人は、宦官を作って売買していた。ローマ帝国後期以降、皇帝の権力が強まると高級官僚の世襲を防ぐことからも宦官が重用された。

東ローマ帝国では国家の正規の官職に宦官が多数任命されたので、自主的に去勢したり、親が子どもを去勢したりする者も多かった。12世紀以降、東ローマ帝国の衰退によって宦官は激減した。

トルコ

トルコのオスマン帝国時代では宦官がハレムを取り仕切っていた。宦官には、外国人である黒人や白人が多く採用されており、宮廷の陰の実力者と呼ばれた。

エジプト

古代エジプトの宦官は、文献では確かめられていないが、貴族の墓の中から去勢された男性のミイラが発見されている。

南米

南米のインカ帝国時代でも、後宮の役割を果たしたと言われる太陽の処女の宮殿の使用人や番人は、宦官であったことがわかっている。

ヨーロッパ

ヨーロッパ各地では、カソリックの合唱隊のソプラノ歌手とするために子どもを去勢していたが、19世紀後半に法王レオ13世によって禁止された。

このように世界各地で宦官制度が取り入れられていたことから、宦官が存在しなかった日本は珍しい部類に入ると言えるだろう。

まとめ

宦官の特徴と日本に宦官が存在しなかった理由、世界各地の宦官について解説してきた。世界各地に宦官制度があったということは、宦官は支配者にとってなくてはならない存在だったと言えるだろう。そのような中で宦官が存在しない日本は、世界各国とは全く異なる歴史を持つと自覚する必要があるのかもしれない。

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