荘襄王は、秦の5代目の王となった人物で、始皇帝の父親としても知られている。即位前には人質として趙で過ごし、呂不韋の協力を得て王となった。本記事では、荘襄王が人質から秦の王になった経緯や、王として即位してからの実績について紹介する。
荘襄王(そうじょうおう)とは?
荘襄王は、中国の戦国時代に、戦国七雄のひとつである秦国の王となった人物だ。秦の第30代の君主で、王を名乗るようになってからは第5代目の王にあたる。姓は嬴(えい)、諱(いみな)は異人(いじん)。華陽夫人の養子となった際に子楚(しそ)へと改名した。
荘襄王は紀元前281年、昭襄王の時代に、太子だった安国君(後の孝文王)と夏姫の間に生まれた。だが、安国君には20人以上もの子供がいて、母親の夏姫がすでに安国君の寵愛を失っていたこともあり、趙国へ人質に出されてしまう。
秦と趙は戦争を繰り返していたために、趙の人々は秦に対して悪感情を持っていた。さらに秦からの援助も少なく、まるで捨て駒のような扱いであり、日頃から監視をつけられて、貧しい格好をしていたと言われている。
その後、大商人だった呂不韋の支援を受けて、安国君の太子となる。秦へと帰還し、安国君が孝文王に即位してわずか1年で死去すると、後を継いで荘襄王として即位した。貧しい人質生活から王にまで上り詰めた稀有な人生を送った人物である。
なお、荘襄王の子・嬴政(えいせい)は、後に中国全土の統一を果たした秦の始皇帝だ。
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荘襄王が秦の王になるまでの経緯
荘襄王は趙へと人質として出された境遇から、どのようにして王になったのか?荘襄王が秦の王になるまでの詳しい経緯を時系列順に解説する。
大商人の呂不韋(りょふい)による援助
趙国で貧しい人質生活を送っていた嬴異人に、当時大商人だった呂不韋が接触する。呂不韋は趙の首都・邯鄲(かんたん)で異人の姿を見かけ、援助の手を差し伸べた。その際に、呂不韋は父親に相談し、異人を奇貨(珍しい価値を生み出す物)にたとえて、手元におくべきだと進言している。これが「奇貨居くべし」の故事成語となった。
呂不韋から資金援助を受けた異人は、その金で賓客を招き交流することで、次第に名声を獲得していく。一方呂不韋は、異人を太子とするための工作を始めるために、秦の華陽夫人と接触する。
華陽夫人の養子となる
華陽夫人は、異人の父親・安国君に寵愛されている側室だったが、安国君との間には子がなかった。そこで、呂不韋は華陽夫人に貢物をして、異人を養子にするように働きかけた。
異人が賓客と交流を持ち、名声を得ていた立派な人物だったこともあって、華陽夫人は養子の話を承諾し、安国君の許可を得て正式に異人を養子に迎え、安国君の後継ぎとして指名する。その時に、華陽夫人が楚国の姫であったことから、異人の名を子楚へと改名した。
趙姫との間に政が誕生
華陽夫人の養子となったのと前後して、子楚は呂不韋がかこっていた女性を気に入り、譲り受けている。呂不韋は、はじめ断ろうとするが、これまでの投資が無駄になってしまうことを恐れて最終的には承諾した。それが趙姫であり、紀元前259年に子楚と趙姫の間に政が生まれている。
資治通鑑には、趙姫が邯鄲で一番の美女だったという記述がある。また、史記の呂不韋伝には、呂不韋が子楚に趙姫を譲る前から身ごもっていて、子楚には秘密にしていたという話がある。そのため、政が呂不韋の子供ではないかという説が当時から存在する。
しかし、趙姫が子楚に譲られてから12ヵ月後に政が生まれているため、期日を考えれば子楚の子供であるという主張もある。なお、始皇本紀では政が呂不韋の子である可能性については全く触れられていない。
秦へ帰還し、太子となる
紀元前258年に、秦が趙を攻めて邯鄲を包囲する。その状況に趙は人質の子楚を処刑しようとするが、呂不韋は役人を買収し、子楚を秦軍の陣地へと脱出させた。
しかし、この時に脱出できたのは子楚だけで、趙姫と政は邯鄲に残され、邯鄲の富豪の家(趙姫の実家という説もある)にかくまわれることになった。
その後、紀元前252年に昭襄王が死去し、安国君が孝文王として即位すると、子楚が太子となったのだ。
荘襄王として即位
紀元前250年に孝文王が即位してわずか一年余りで死去したため、子楚が荘襄王として即位する。宰相(丞相)に呂不韋を登用し、義母の華陽夫人は華陽后から華陽太后に、実母の夏姫は夏太后に、趙姫は妃となり、政は太子となった。政が太子となったことで、趙の孝成王は驚いて政母子を秦へと送り返したという。
荘襄王の主な実績
次に、荘襄王が王に即位してからの主な実績を紹介する。
宰相に呂不韋を起用
荘襄王は昭襄王や孝文王の政権を引き継ぎ、これまでの功臣をそのまま登用したが、宰相(丞相)には呂不韋を登用した。これは、荘襄王が人質時代に呂不韋の援助を受けた際に交わした約束でもあった。荘襄王は約束を守り、呂不韋の貢献に報いたのだ。
呂不韋は権勢を極め、秦の歴史に名を残す宰相となる。3,000もの食客を集めて天下に名声を示し、その中にいた李斯の才覚を認めて推挙した。
呂不韋は荘襄王の死後も相国として政治の実権を握り、まだ幼い子供だった政が成長して親政を行うようになるまで秦の実質的な支配者として君臨する。
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新たな群の設置
荘襄王は昭襄王と孝文王の政策を引き継ぎ、魏・韓・趙との戦争を続けた。さらに昭襄王の時代に西周を滅ぼしていたのに続いて、呂不韋に命じて東周を滅ぼしている。
東周が存在した土地には新たに三川群が設置されたが、東周の王族は生かされた。この、滅ぼした国の王族を生かすやり方は息子の政にも踏襲されていて、政の時代にも滅ぼした国の王を処刑した記録はない。
さらに、即位前に秦が趙の大軍を打ち破った「長平の戦い」の舞台となった上党の地を完全に制圧し、こちらには新たに上党群や太源郡を設置している。これらの功績は、呂不韋の登用と、昭襄王・孝文王の時代の功臣をそのまま重用した結果といえるだろう。
河外の戦いで秦の滅亡を防いだ?
魏は荘襄王の即位後の戦争で37の城を奪われていたが、紀元前247年に趙・韓・楚・燕と同盟し、魏の信陵君を総大将とした5ヵ国での連合軍で秦に攻め込んだ。秦は将軍の蒙驁(もうごう)に命じて迎撃するが、黄河の南で行われた戦いで敗れ、函谷関まで撤退する(河外の戦い)。
函谷関を突破されてしまえば秦が滅亡する可能性まであったが、連合軍の総大将である魏の信陵君が魏の安釐王とは元々不仲であった事を利用し、安釐王に信陵君が王位を狙っているという流言を仕掛けた。
これが成功し、信陵君は政司の実権を奪われて左遷され、連合軍は函谷関を落とすことなく撤退していった。
荘襄王の死去
荘襄王は河外の戦いの同年である紀元前247年に35歳の若さで死亡する。死因は不明で、前後の詳しい状況もわかっていない。在位はわずか3年ほどしかなかった。
父親の孝文王の在位が1年、荘襄王は3年と、短い間に次々と王が死去することになったが、昭襄王・孝文王から政策を引き継いで家臣をそのまま重用したため、代替わりによる混乱も少なく、荘襄王は大過なく国を治めた。
軍事的には東周の攻略、上党の制圧の他にも、各国の土地を制圧し続けて領土を広げ、成功を納めている。
また、呂不韋を宰相に登用したのも荘襄王の大きな功績だった。元は大商人だった呂不韋は秦を経済的に発展させ、さらに李斯をはじめとした有能な人間を推挙した。結果として呂不韋は、秦の歴史に名を残す宰相となった。
これらの功績が、息子である政が中国全土の制圧を成し遂げた布石となったと言えるだろう。中国統一を成し遂げた秦王政の覇業は、昭襄王、孝文王、荘襄王らが打ち立てた功績の最終結果なのだ。
まとめ
本記事では、荘襄王が人質から秦の王になった経緯や、王として即位してからの実績について紹介した。
荘襄王は、かつては人質として貧しい生活をしていたが、そこから秦王に即位した、珍しい経歴を持つ人物だ。在位はわずか3年ほどだったが、その間に呂不韋の登用をはじめとした数々の功績を残している。それらが、息子の秦王政による中国統一に繋がったと言えるだろう。