高橋清是は、明治から昭和にかけて日本の財政立て直しに大きく貢献した政治家・財政家だ。日銀総裁、大蔵相を経て第20代内閣総裁、政友会総裁などを歴任し栄典は正二位大勲位子爵を得ている。「日本のケインズ」と言われた高橋是清の経歴や逸話、功績を紹介する。
高橋是清(たかはしこれきよ)とは?
ペリーが来航した1854年、幕末期であったこの年に高橋是清は誕生。当時の幕府御用絵師であった川村庄右衛門と自宅奉公に来ていた侍女との間に産まれた高橋是清は、生後4日で仙台藩の足軽であった高橋家に養子に出された。
11歳になった高橋是清は、ヘボン式ローマ字でも有名なヘボン博士の塾で英語を学び13歳でアメリカへと留学。帰国後は薩摩藩士である森有礼の書生となったり、英語教員の職付いたりしながら生活を送ることになる。
その後、川田正一郎の声かけで日本銀行へ入行。見る間に出世をする中で副総裁の地位と実績を確立、後に日銀総裁に就任。しかし1913年には政界に転身し立憲政友会第4代総裁、第20代内閣総、6回の大蔵大臣を務める。
また、財政家としても優れていた高橋是清は「日本のケインズ」とも呼ばれ、ケインズ経済学でもある短期間の経済変動に焦点を当てた「需要重視」理論にて、インフレ(モノの値段は上がるがお金の価値は下がる状態)的傾向な政策を展開する。
昭和金融恐慌による景気回復後は、財政引き締めにて軍部の軍事費予算の圧縮に乗り出すが、このことが若手将官の反発を買い1936年の2月26日(2・26事件)、中橋基明中将ら兵員約100名が高橋私邸を襲撃、暗殺されてその生涯を終える。
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- 一足す一が二、二足す二が四だと思い込んでいる秀才には、生きた財政は分からないものだ
- 人事を尽くして天命を待つ。自分は尽力のあらん限りを尽くした。この上は天の指図を待つのみである。こうなると成敗利純(成功・失敗・運・不運)は人間の眼中にはなくなる
- その授かった仕事がなんであろうと、常にそれに満足して一生懸命するから衣食は足りるのだ
- 財政予算は、国民所得に応じた予算をつくらなければならない。財政上の信用維持が最大の急務である
- 国防のみに遷延し悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きがあっては国防も決して牢固となりえない
経歴
高橋是清の誕生から、2・26事件にて生涯の幕を閉じるまでの経歴を紹介する。
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・1918年:原内閣の大蔵大臣(2度目)に就任
・1921年:第20第内閣総理大臣に就任(大蔵大臣と兼任)
・1924年:加藤内閣の農商大臣に就任
・1927年: 田中内閣の大蔵大臣(3度目)に就任
・1931年:犬養内閣の大蔵大臣(4度目)に就任
・1932年:斉藤内閣の大蔵大臣(5度目)に就任
・1934年:岡田内閣の大蔵大臣(6度目)に就任
高橋是清の逸話
高橋是清は、波乱万丈な生涯のなかで様々な逸話を残している。中でも是清ならではの2つのエピソードを紹介したい。
留学先のアメリカで奴隷になる
高橋家に養子となった是清は、11歳になったときヘボン式ローマ字でも有名なヘボン博士の塾で英語を学び13歳でアメリカへと留学する。
しかし、この留学中の世話役ヴァン・リードに学費や渡航費を着服されてしまう。また、ヴァン・リードの両親は「年季奉公の契約書」にサインをさせオークランドに是清を売り飛ばす。このことにより、高橋是清は牧場やブドウ園で働く過酷な奴隷生活を送ることとなる。
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無一文から日本銀行の総裁へ
奴隷から脱した高橋是清は、森有礼の書生、英語教員の職付くなどしながら日々を過ごす。森有礼の推薦で大学南校の教官助手として務めるが、芸者遊びや飲酒などが見つかったため学校をクビになり、転々とすることになる。
その後、文部省に出仕し通訳を行い、のちには農商務省の官僚として精力的に務める。また、特許局の初代局長として日本の特許制度を整えるなど尽力した。
特許局を辞任後、民間に転身した際に農商務省の先輩、前田正名に誘われドイツ人の実業家によるペルーの銀鉱山の共同経営を持ちかけられ、是清はペルーへと渡航。しかし、鉱山は廃坑しており、是清はこの詐欺にあったことで全財産を失ってしまう。
このことから、前田正名は是清の没落に責任を感じ、川田正一郎(実業家、政治家)に是清を紹介。1892年(明治25年)に日本銀行建築所事務主任として再起を図り、1895年(明治28年)には日本銀行から横浜正金銀行本店の支配人として入行する。横浜正金銀行では副頭取へと昇進するも、1899年に日本銀行の副総裁に任命されたのを機に横浜正金銀行を退職する。その後、1911年に日本銀行総裁に就任することになる。
高橋是清が無一文から日本銀行総裁に昇進した、このすごい逸話は後世でも知られるサクセスストーリーだろう。
高橋是清の功績
日本銀行総裁や大蔵大臣を6回も歴任するなど、高橋是清はそのなかで数々の功績を残している。なかでも日露戦争時による資金調達や昭和金融恐慌を収束させた功績は大きなものとなっている。そんな高橋是清の功績を紹介していく。
日露戦争では資金を調達して勝利に貢献
日銀副総裁を務めていた高橋是清は、日露戦争の資金調達のため、為替で通貨価値が乱高下しない「金本位制(通貨を金で担保する制度)」により、外債募集を成功させる。
当時、政府は日露戦争の軍費4億5千万円のうち、3分の1の1億5千万円は外債で賄うよう判断。日銀で賄える費用は約5千万円のため、残り1億円を海外から調達することを決める。
日本はイギリスと同盟国であったが、「ロシアと中立の立場」でもあったイギリスは債務保証を拒否。このことから、英語が堪能な高橋是清に1億円(1000万ポンド)の調達を命じた。
高橋是清は渡米するも、日本がロシアに勝利するとは誰も考えなかったため、外債を買う者がいなかった。そんな中、今度はイギリスに渡って銀行家たちに「外債支払いは税関収入で賄う」などの交渉を行い500万ポンド分の受取先確保に成功。残りの500万ポンドもヘンリー・シフという銀行家が受取先となった。
このことにより、1904年5月に日本は1億円の軍事費調達に成功。高橋是清は日露戦争の勝利に貢献、まさに「不運なときほど自分を信じろ」との名言にも現われた大きな功績を残したのだ。
昭和金融恐慌を終わらせる
日本経済は、第一次世界大戦時の好況(特需景気)から一転して、1920年には戦後不況に陥り、企業、銀行は不良債権を抱えることとなる。
また、関東大震災(1923年)の発生の処理として、震災手形が膨大な不良債権となる一方で中小の銀行は折からの不況により経営状態は悪化。社会全般に金融への不安が生じてしまう。
1927年の3月に、片岡蔵相による「東京渡辺銀行破綻」の失言により金融不安が表面化したことで中小銀行を中心とした取り付け騒ぎが発生するも、一旦は収束。しかし4月には、鈴木商店が倒産したことでその煽りを受けた台湾銀行が休業となったことから金融に対する不安は再燃することになる。
高橋是清は、これに対して全国の銀行に2日間の臨時休業を決定。その中でも経営状態が極めて悪い銀行には3週間の支払い猶予期間(モラトリアム)を与える緊急勅令の渙発を行った。
そして、日銀に200円札を500万枚擦ること命じ、片面のみ印刷された200円札を開業した銀行前に積み上げて預金者を安心させ、この昭和金融恐慌を見事に収束させたのだ。
まとめ
高橋是清は、「財政の第一人者」として日本に名を残した人物だ。高橋の政策は経済用語的に表すと、「ケインズ経済学」であり、金融政策と経済政策を方策したものである。1929年より始まった金融恐慌に世界があえぐなか、この政策により日本はいち早く恐慌から脱却できたのだ。
また、国が軍事費拡大の一途を辿る一方で、日本の財政の為に命を賭けて戦った高橋是清の姿から学ぶことは多くある。
奴隷に放蕩生活と波乱の人生を送った半生だったが、何度も日本の危機を救った皆なから愛される「だるま宰相」は、戦前の経済史と政党政治の変革に密接な関係をもたらしたことは間違いないないだろう。