明が滅亡したのはいつ?直接のできごとや原因をわかりやすく解説

明が滅亡したのはいつ?直接のできごとや原因をわかりやすく解説

明は1368年の建国から約280年続いた漢民族の王朝である。明は、皇帝による専制体制を確立し、経済も発展し大規模な朝貢貿易を行っていたが、ヌルハチの台頭や李自成の乱などによって1644年に滅亡したことについて解説する。

明王朝とは?わかりやすく解説

明王朝の創始者は、貧農出身で乞食僧だった朱元璋(しゅげんしょう)、後の洪武帝(こうぶてい)である。紅巾(こうきん)の乱の指導者として力を発揮した朱元璋は、1368年に南京を都として明を建国したのである。

洪武帝死後、帝位継承争いの靖難の役(せいなんのえき)によって即位した永楽帝は、北に残っている元の勢力に対抗するために北京に遷都し、モンゴルやベトナムに遠征し領土を拡大して大帝国を作り上げた。また紫禁城を造営したり、鄭和を南方諸国へ派遣したりして最盛期を迎えたのだった。

しかし、北慮南倭(ほくりょなんわ)と呼ばれる脅威を防ぐための軍事費は、明王朝を苦しめていった。北慮南倭は、明王朝が自由貿易を許さなかったために、民間でさかんに行われていた密貿易と実体経済が伴わず争いに発展したものと考えられている。

1580年、宰相の張居正(ちょうきょせい)が海禁を緩和して貿易を認める政策を行ったので、北慮南倭の脅威は収まったかに見えたが、張居正の死亡により再び悪化してしまった。

その後政治の乱れと経済の悪化により、農民反乱が頻発するようになって明王朝の滅亡を招いたのだった。

北慮はモンゴル系遊牧民、南倭は倭寇を意味する。倭寇の実態は武装した民間の密貿易業者であった。

明王朝の政治

洪武帝は元の一族やモンゴル人たちをモンゴル高原へ追いやり、皇帝による専制体制を強めていく政策をとった。

まず、最高行政機関であった中書省を廃止すると、「六部」を皇帝直属とした。六部とは、吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部で、政府の行政実務を担当した官庁である。

一方、農村の立て直しのために「里甲制(りこうせい)」を定め、徴税や治安維持、労役の管理を行い、農民を統治した。物資や労力を把握するために作成されたのが、「魚鱗図冊(ぎょりんずさつ)」と「賦役黄冊(ふえきこうさつ)」である。

魚鱗図冊はいわゆる土地台帳で、土地の場所と面積、所有者が記載されている。賦役黄冊は戸籍と租税に関する記載がされていた。この2冊をもとに、農作物と労働力を徴収したのだ。

また、当時、東シナ海では倭寇にも悩まされており、倭寇と国内の反乱勢力が結びつくのを恐れて、海禁令を出していた。海禁令は民間の交易や海上交通を禁止するものだったが、それに反して朝貢貿易は拡大していった。

洪武帝は六諭(りくゆ)を定め、民衆を教化している。六諭とは儒教の家族倫理を要約したもので、清朝にも受け継がれている。

明の皇帝歴代皇帝【一覧】

明王朝の歴代皇帝一覧がこちらになる。正統帝と天順帝は同じ人物で、一度退位してまた即位している。

即位の順番皇帝名(読み方)
初代洪武帝(こうぶてい)1368~1398年
2代建文帝(けんぶんてい)1398~1402年
3代永楽帝(えいらくてい)1402~1424年
4代洪熙帝(こうきてい)1424~1425年
5代宣徳帝(せんとくてい)1425~1435年
6代正統帝(せいとうてい)1435~1449年
7代景泰帝(けいたいてい)1449~1457年
8代天順帝(てんじゅんてい)1457~1464年
9代成化帝(せいかてい)1464~1487年
10代弘治帝(こうちてい)1487~1505年
11代正徳帝(せいとくてい)1505~1521年
12代嘉靖帝(かせいてい)1521~1566年
13代隆慶帝(りゅうけいてい)1566~1572年
14代万暦帝(ばんれきてい)1572~1620年
15代泰昌帝(たいしょうてい)1620年
16代天啓帝(てんけいてい)1620~1627年
17代崇禎帝(すうていてい)1627~1644年
明の歴代皇帝一覧

明が滅亡したのはいつ?

明が滅亡したのは1644年のことである。1644を人無視死滅の明朝という語呂合わせにすると覚えやすいだろう。ここでは明が滅亡することになったできごとについて解説するので、参考にしてほしい。

女真族「ヌルハチ」の台頭

女真とは満州に居住していたツングース系の民族で、12世紀に金を建国したが元に滅ぼされて元に服属していた。明王朝は女真を部族ごとに編成して朝貢させていたが、明代の後半には建州女真、海西女真、野人女真の集団になっていた。

明軍によって祖父と父を殺されたヌルハチは、1583年に挙兵して女真族を統一し、1616年には後金(こうきん)を建国してハンの位につき、元号を天命と定めて明と対抗したのだった。

ヌルハチは女真族を統率するために八旗(はっき)を編成した。八旗とは軍事・行政組織で、女真族だけでなく後金に属するモンゴル人や漢人にも適用された。八旗は、後に清朝における軍事力の基盤となっている。

1618年明に宣戦布告したヌルハチは、撫順城を占領した。明は10万の大軍を送って対抗したが、1619年のサルフの戦いで明は大敗北を喫し、ヌルハチは満州の支配権を固めていった。

1626年にヌルハチは2度目の対明総攻撃を仕掛けたが、明の火砲(大砲)による攻撃に敗北し、ヌルハチはこの戦いの傷がもとで亡くなったと言われている。ヌルハチの子のホンタイジがハンの位につき、1636年に国号を清としたのである。

李自成の反乱

李自成(りじせい)の反乱とは、明の末期に起きた農民反乱のひとつである。当時、明王朝の政治は腐敗し、重税に苦しんでいるところに大飢饉がおき、民衆は各地で暴動や農民反乱を起こすようになっていた。

李自成は失職したことをきっかけに反乱を起こすと、反乱軍のリーダーとなって各地を転戦していった。1641年に洛陽を攻め落とすと、開封や西安も次々に攻め落とし、ついに北京へ進軍。1644年に明最後の皇帝である崇禎帝が自殺し、明は滅亡したのである。

ところが山海関で清軍と対決していた明の呉三桂(ごさんけい)は、李自成の反乱を機に清軍に投降し、清軍を引き連れて北京へ入城して李自成軍を倒したのだった。これにより清王朝が明を引き継ぐことになったのである。

明が滅亡した原因

明が滅亡したのは国の弱体化が原因だが、それは宦官による腐敗と秀吉の朝鮮出兵が大きく影響していると考えられる。

宦官による腐敗

史上最悪の宦官とも言われる魏忠賢(ぎちゅうけん)が明の滅亡を早めたと言えるだろう。自ら去勢し宦官となった魏忠賢は、皇子(後の天啓帝)の祖母の食事係を命じられたことがきっかけで、皇子の乳母の客氏と親しくなり夫婦になった。

皇子は即位して天啓帝となってからも乳母に依存しており、政務はすべて魏忠賢と客氏が握り、官僚たちを粛清していったのだった。魏忠賢に取り入る人は、九千歳と叫んだとされている。皇帝は万歳なので九千歳としたらしい。

また、魏忠賢は後金との戦においても、ヌルハチの軍に負け続けていることを皇帝に隠し、ワイロを送ってこない人物を粛清していった。そのため、崇禎帝が即位した時にはすでに優秀な人材はなく、どうにもならないほどに崩壊してしまっていた。

なお、崇禎帝が即位するにあたって、魏忠賢は自殺し、客氏も撲殺された。

秀吉による朝鮮出兵

明の弱体化には、1592年に始まった豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が大きく影響していた。

明の14代皇帝、万暦帝は、寧夏(ねいか)、播州(はしゅう)で起きた乱の鎮圧に加え、朝鮮へ軍を派遣しなければならなかった。朝鮮半島へ援軍を出したのは、明が李氏朝鮮の宗主国であり、日本軍が朝鮮を占領するような事態になるのを見過ごすことができなかったとされている。

朝鮮へは10数万の軍を派遣しており、そのための軍費は明の国庫を圧迫し、民衆に重税を課すことになったのである。万暦帝は私的なことに莫大なお金をつぎ込むようになり、後宮にひきこもって政治に無関心になっていった。

まとめ

明は280年間も続いた王朝だ。17人もの皇帝に継承された大国であったが、北慮南倭に対して柔軟に対応できなかったこと、万暦帝以後は農民への重税や凶作に対して無策であったことが滅亡の原因と言えるだろう。

その結果、農民の反乱を招き、1644年に滅亡したのだ。問題に対する柔軟な対応や民に対する過酷な労働問題は、現在にも通ずることがあるだろう。

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