ネルウァとはどのような人物?初代五賢帝の生い立ちや実績を解説

ネルウァとはどのような人物?初代五賢帝の生い立ちや実績を解説

ネルウァは、第12代のローマ帝国皇帝となった人物だ。ネルウァ=アントニヌス朝の初代皇帝であり、ローマ帝国の最盛期を築いた五賢帝時代の最初の皇帝として、世界史に名を刻んでいる。この記事ではネルウァの生い立ちと皇帝に即位した経緯、皇帝として何をしたのかを説明する。

初代五賢帝ネルウァとは?

ネルウァは、第12代のローマ帝国皇帝で、ネルウァ=アントニウス朝の初代皇帝だ。ローマ帝国の最盛期といわれる五賢帝時代の最初の皇帝としても知られている。

フルネームはマルクス・コッケイウス・ネルウァで、元老院の推挙で皇帝になった。それまでの元老院は帝位を追認するだけの存在でしかなかったが、ネルウァは元老院の主導で皇帝へと選出されている。

ネルウァは、ユリウス=クラウディウス朝最後の皇帝であるネロと、ネロが自害した後に成立したフラウィウス朝に仕えて立身を果たしている。その後、フラウィウス朝が断絶して継承者がいなかったため、西暦96年に皇帝へと推挙された。歴代の皇帝と血縁関係にない珍しい人物だ。即位時の年齢は65歳で、当時としてはかなりの高齢であった。

ネルウァの在位期間はわずか15ヶ月しかなかった。内政面では前帝のドミティアヌスの時代に迫害された人物の名誉回復に努め、追放された元老院議員を復職させた。また、血縁関係のないトラヤヌスを養子にして帝位を継がせ、五賢帝時代の基盤を築いた人物でもある。

かつては「ネルヴァ」と表記されることもあったが、現在では「ネルウァ」と表記されることが多い。そのため、この記事でも表記はネルウァに統一している。

ネルウァの生い立ち

ネルウァは、イタリアの都市ナルニの元老院議員の家系に生まれた。ネルウァ家が所属するコッケイウス氏族は裕福だったが、上流氏族ではなかった。現に、祖父と父は補充執政官にまでしか出世していない。

西暦65年、ネルウァは皇帝ネロの時代に法務官に指名され、同年には皇帝ネロの暗殺未遂事件(ピソの陰謀)を未然に防いで功績を挙げている。外交に優れた政治家であり、文才に優れた教養人としても名声があった。

後に帝位を奪い取るウエスパシアヌスとは皇帝ネロの時代から親友同士であり、息子の養育をネルウァに頼んだという逸話が残っている。この時にネルウァが養育した相手が、ネルウァの先代の皇帝ドミティアヌスである。

西暦68年にネロが自害すると、帝国は内乱状態に陥った。その内乱を勝ち抜いたのがネルウァの親友のウエスパシアヌスであり、ウエスパシアヌスが帝位についた際にネルウァは執政官に任命されている。このことから、ネルウァがウエスパシアヌスを支持していたと推測されている。

その後、ウエスパシアヌスの息子のティトゥスとドミティアヌスが帝位にある時も宮廷に仕えていたが、決して目立った功績を挙げてはいない。西暦89年に反乱の鎮圧に功績があったとの推測もあるが、詳細は定かではない。反乱の翌年にネルウァは執政官に任命されている。

皇帝となった経緯

西暦96年にドミティアヌスが暗殺されたが、血縁の後継者がいなかったので、暗殺の直後に元老院の全会一致でネルウァが皇帝へと推挙されている。ネルウァの経歴からしておかしなこととまでは言えないが、他にも有力者はいたので、なぜネルウァが推挙されたのかは当時から疑問視されている。

一説では、暗殺事件を事前に知っていて準備していたのではないかという説や、ドミティアヌス暗殺の首謀者がネルウァだとする説も存在し、当時から歴史家の議論の的になっている。ネルウァはすでに65歳の高齢で、後継者となる実子もいなかった。

確かに、皇帝に推挙されるのには少し違和感が残る。だが逆に、臨時の場つなぎの皇帝として都合がよかったからではないかという説もある。

ネルウァの実績

ネルウァは、在位15ヶ月という短い期間に何をしたのか。ネルウァの皇帝としての実績を紹介する。

ネルウァは、元老院議員の支持を集めて政治上の支持基盤にしようとしたが、あまり成功せず、元老院には反ネルウァ派が形成された。軍部の支持はさらに少なく、ネルウァの帝位ははじめから非常に危ういものだった。

その中で、ネルウァの功績として以下の2つが挙げられている。

元老院議員への「殺さずの宣言」

ネルウァは、自分の治世において元老院議員を決して処刑しないと宣言している。先帝のドミティアヌスの時代に、強圧的な政治に苦しめられていた元老院にとって、ネルウァの宣言は救いであった。他にも、ネルウァは先帝の時代に失脚した人物の名誉回復にも努めている。

この、元老院議員を処刑しないという宣言にはその後の皇帝も従い、五賢帝時代と呼ばれる平和な時代を創り出した。五賢帝時代は、ローマ帝国の最盛期とも呼ばれている。

血縁関係のないトラヤヌスを養子に迎えた

ネルウァは、血縁関係のないトラヤヌスを次代の皇帝として養子に迎えた。トラヤヌスは実績も人望もある人物だったため、帝位の継承は問題なく行われた。ネルウァは養子縁組をした翌年の西暦98年に死去している。こういった優れた人物を養子として帝位を継がせる風習が受け継がれたことが、五賢帝時代の繁栄の理由の一つと言われている。

ネルウァがトラヤヌスを次代の皇帝に選んだ理由は諸説ある。なかでも有力なのが、軍部の圧力に屈して軍人として名声のあるトラヤヌスを選んだという説だ。

ネルウァ帝の治世は決して安定したものではなく、先帝の影響による混乱が大きかった。特にネルウァ帝は軍部からの支持がなく、養子縁組の前には反乱に近い騒ぎも起こっている。トラヤヌスを養子とした後には軍部は落ち着いているので、効果はあったとみるべきだろう。

まとめ

この記事ではネルウァの生い立ちと皇帝に即位した経緯、皇帝として何をしたのかについて説明した。

ネルウァは、血縁がないのに元老院の推挙で皇帝になった珍しい人物だ。在位は15ヶ月と短く、目立った功績も挙げていないが、その後に続く平和な時代の基盤を作った人物として、五賢帝の一人として評価されている。世界史を学ぶ上では重要な人物と言えるだろう。

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