ノモンハン事件〜軍部の暴走と精神主義が招いた悲劇

ノモンハン事件〜軍部の暴走と精神主義が招いた悲劇

ノモンハン事件とは?わかりやすく解説

ノモンハン事件はただの国境紛争が、関東軍の命令無視と精神主義で大拡大した戦いだ。陸軍にとっては戦車などの近代兵器を使った初めての「近代戦」だった。ノモンハン事件は1939年の5月に勃発するが、9月に第二次世界大戦が始まるため休戦が成立。このために日本は北進を捨てアメリカと戦う南進論に外交の舵を取ることになる。思えばノモンハン事件こそが、大東亜戦争という失敗の始まりとも言える。ソ連側ではこの戦争をハルヒン・ゴル河畔の戦いと呼んでいる。

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ノモンハン事件まで、関東軍は日中戦争の中国軍やゲリラなど、まともな軍隊と呼べる組織とは戦っていなかった。その上満州事変などでの成功体験のために慢心し、日本の中央(=大本営)からの命令も軽んじ始め、組織が腐敗していた。そんな時に初めて近代兵器で武装したソ連軍と対戦し、痛い目を見ることになる。それがノモンハン事件だ。

ノモンハン事件の背景

満州国による国境問題

1933年、日本は満州事変によって満州全域を支配下に収め、満州国を樹立した。それにとってソ連と直に国境で接することになった。また、清国時代にモンゴルと決めた国境が雑で、満州国とモンゴル(ソ連)との間で意見の食い違いが多かったこともノモンハン事件の背景にあった。

日独伊防共協定

日本は、同盟国だったドイツやイタリアとともに、共産主義に反対する日独伊防共協定に調印していた。このことから共産主義のソ連とは陸続きの敵国同士になり、緊張関係が続いていた。

大本営を無視した関東軍の暴走

辻政信参謀など、ノモンハン事件を指揮した関東軍の幕僚は満州事変以来の成功体験から自信過剰かつ楽観的になっており、その慢心がノモンハン事件での中央からの命令の軽視や、独善的な作戦立案、過度の精神主義に結びついた。

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ノモンハン事件の一年前に「張鼓峰事件」という同じような紛争があった。この時も日本はソ連の近代兵器に痛い目にあっているのだが、そのことが十分にフィードバックされず、一年前の教訓をなにも生かせていなかった。「張鼓峰事件で敗れたのは消極的な姿勢のためである」として敗因を研究しない姿勢からは当時の関東軍の奢りがうかがえる。学習を軽視する組織の末路がノモンハン事件とも言えるだろう。

ノモンハン事件の経緯

ノモンハン事件の経緯は国境紛争による関東軍とソ連軍による武力衝突がまずあり、そこに関東軍の命令無視による紛争の拡大が、泥沼の戦線を作り出したとざっくり覚えておくと理解しやすい。

時系列

複雑で長いノモンハン事件の経緯をタイムラインで整理している。時系列で流れを追うとわかりやすいので参考にしてほしい。

1933年
満州国樹立
関東軍が実質的に満州を動かしていたために、この時からソ連と国境を接することになる
1937年
日独伊防共協定
この協定に調印したために、当然だがソ連と日本の仲が険悪になる。これ以降、日ソ間の国境紛争は頻発する。
1938年7月29日
張鼓峰事件
ソ連兵が越境しているとして、朝鮮駐留の日本軍が出動したが、戦車や飛行機などの近代兵器によって撃退された。関東軍はこの敗北を「消極的な姿勢のため」として、この敗北から何も学ばなかった。このときの惰性が一年後のノモンハン事件で悲劇を招く。
1939年5月11日〜31日
第一次ノモンハン事件
満州国と外モンゴルの国境地帯で関東軍とソ連軍が衝突。関東軍はノモンハン地区の国境線の明確化を主張して軍事行動を開始し、モンゴルを支援するソ連軍がこれを迎撃した。

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制空権は日本が優勢だったが、地上戦ではソ連の装甲車や火砲が圧倒的で日本軍は苦戦した。


6月18日
第二次ノモンハン事件
ソ連軍が越境爆撃を開始。関東軍が中央に独断でタムスクを爆撃した。
このことにより昭和天皇は関東軍に不信感を抱くことになる。
7月
ハルハ川の戦い
ハルハ川を渡って戦おうとしたが、資材が足りず、態勢が整えられないままソ連の攻撃を受けた。
7月23日
ソ連の砲撃で疲弊
ハルハ川を渡ることを諦め、砲撃に切り替えるが、返り討ちになり、これ以降戦局は泥沼化していく。
8月20日
ソ連の総攻撃
日本を上回る戦力で総攻撃。日本と違い前線から十分に情報がフィードバックされ、日本の火炎瓶を警戒し、戦車の燃料をディーゼルに変えるなど対策されていた。
8月23日
突然の独ソ不可侵条約
同盟国だったドイツがソ連と突如不可侵条約を結ぶ。

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突然の独ソ不可侵条約に日本は衝撃を受けた。そもそもドイツと日独防共協定を結んだことからソ連との仲が険悪になったのに、そのドイツとソ連が不可侵条約を結ぶのだから意味がわからない。さらに9月1日にはドイツのポーランド進行が始まり、第二次世界大戦に突入する。
9月15日
休戦協定
関東軍は不利な状況であるとして、休戦協定を結んだ。ソ連の指揮官だったジューコフはスターリンに勝利を報告した。

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ノモンハン事件は一般的に日本軍の大敗とされているが、近年になって発見された資料によると、ソ連の一方的な圧勝というわけでもないことが明らかになっている。制空権では日本の戦闘機の練度が圧倒的であったことが大きく、少なくとも人的な損害ではソ連の方多い。しかし、日本の被害も大きかったので、関東軍は自軍の敗北と認識し、休戦交渉はソ連に有利に進められた。

ノモンハン事件の教訓

ノモンハン事件の教訓は多い、しかしこの戦いの根底にあるのは慢心による軍部の暴走だと思う。

中央から地理的に離れ、コントロールの効かなくなった軍隊の末路としてノモンハン事件を胸に刻もう。

また、一年前にも似たような紛争があったにも関わらず敵勢力を過小評価していたこと、「大和魂があればなんとかなる」という精神主義のために戦車に火炎瓶で特攻するなど、ありえない戦略がまかり通ってしまった。

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ノモンハン事件は本当にひどい戦いだった。作家の司馬遼太郎はノモンハン事件を題材に小説を書こうとしたが、調べるたびに当時の関東軍に嫌気がさし、結局書けなかったという逸話が残っているほどだ。
  • 学習を軽んじた組織
  • 行き過ぎた精神主義
  • 補給に対する認識の甘さ
  • 組織の暴走

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