王莽とは?中国史上はじめて帝位簒奪を行った人物の生涯を解説

王莽とは?中国史上はじめて帝位簒奪を行った人物の生涯を解説

王莽は中国史上はじめて帝位を簒奪したとされ、世界史にも残る人物だ。漢王朝を終わらせ新王朝の時代を建国した王莽だが、儒教を重んじた謙虚な姿勢の裏には、出世のために手段を選ばない顔も存在していた。今回はそんな王莽の生涯を解説していく。

王莽とは

王莽は前漢の10代皇帝・元帝の皇后、王政君の甥にあたり、帝位を簒奪して皇帝の座を奪った、中国の歴史上初めての人物だ。

外戚として宰相となった後、皇帝(平帝)を毒殺し、幼き皇太子の摂皇帝となって政治の実権を握った。居摂3年に帝位を簒奪して皇帝になり、「新」を建国するわけだが、目的のためには手段を選ばない一面も持っていたとされる。

なお、新王朝では古代の周の時代を模倣した政策がうまくいかず、各地で反乱が起こった結果、最後は反乱軍に処刑されてその生涯に幕を閉じた。

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ちなみに、王莽の読み方は、「おうもう」である。王莽の「莽」という正式な漢字は、草冠の下が「大」ではなく「犬」である。漢書にもそのように記されているので覚えておこう。

王莽の生い立ちと青年期

王莽は帝位を簒奪したことから残虐非道な印象を持たれているが、青年時代は質素で貧しい生活のなか、儒教の勉学にも励み勤勉であったと言われており、儒生のような服を着て、母親や兄嫁に仕えていたようだ。

王一族は前漢の皇帝の外戚であり、叔父達は裕福な暮らしを送っていたが、王莽の家庭は父である王曼と、兄の王永が早くに他界してしまったため、貧しい生活を送っていたのである。

叔父の王鳳から信頼を得る

王莽は叔父の王鳳が病に伏せると熱心に看病をした。叔父の王鳳は、妹の王政君が元帝の子供を産み、皇后となったことから「大司馬」「大将軍」という高い位を得ていた。

王莽の献身的な看病に心を打たれた王鳳は、王莽に絶大な信頼を持ち、成帝(前漢の第11代皇帝)に王莽を推挙し託したのである。この出来事によって、王莽は出世街道に乗ることになるのだ。

王莽の出世

王鳳から信頼を得たことで、王莽は躍進の出世を遂げていった。しかし、その裏にはライバルを蹴落としてのしあがる姿もあったのだ。

王政君の姉の子である淳丁長は、王莽より高い位にありライバルであった。淳丁長が邪魔だった王莽は、彼の罪を見つけだし、大司馬であった王根を通して密告、淳丁長を失脚させた。王莽は出世のためなら手段を選ばなかったのだ。なお、その後王莽は王根の後継となり大司馬にまで出世している。

哀帝の時代に一時失脚するも大司馬に復帰

第11代皇帝の成帝が亡くなった後、第12第皇帝の哀帝が即位すると、傳一族が外戚として力を持ち、王一族は排除されていった。王莽も大司馬から罷免されてしまい、朝廷から新都へ追い出されてしまうのだ。その後、大量の復帰嘆願書を書かせた王莽は元寿元年に朝廷への復帰が叶う。

王莽が朝廷に戻った後、哀帝は亡くなるのだが、これは王莽の毒殺だという説がある。こうして大司馬へと返り咲いた王莽は、幼い中山王を平帝として皇帝に就かせた。

また、王莽は民衆からの支持を得るため、自らの子供でさえも悪い行いをすれば罰する姿勢を見せており、実の息子である長男・王宇と次男・王獲を処刑したとされている。

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ちなみに、長男・王宇の罪は王莽の命令に従わなかったこと、次男・王獲の罪は召使いを殺害したことと言われている。どちらも処刑されるほどの大罪ではないが、この「我が子でさえも悪は許さない、正当性」が民衆からの支持を得ていたようだ。

「摂皇帝」として権力を握る

権力を取り戻した王莽は儒学者を多く取り入れ、儒学の要素の濃い政治を行うようになった。そして王莽の娘を平帝の皇后として嫁がせたのだ。娘を平帝の皇后にしたことで、王莽は外戚として力をつけ、宰相・安漢公となる。

宰相とは行政首長であり、皇帝を補佐して政治を行う官職である。その後、元始5年に平帝が亡くなると、まだ2歳の幼い皇族を皇太子とし、王莽自身は「摂皇帝」となって政治を動かすことになるのだ。

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平帝の死因は王莽による毒殺説と病気説があると言われている。

王莽の帝位簒奪と「新」の建国

摂皇帝となって実権を握った王莽は、世界史にも残る帝位の簒奪に向かって動くことになるのだ。王莽は帝位の簒奪を行なうために以下のような手段を講じた。

  • 古文に基づき、王莽自らが皇帝の位を継承するべきだと正当化
  • 「金策書」という予言書のようなものを捏造

こうして居摂して3年、ついに王莽は中国の歴史上でも初の禅譲(正式な後継者でない者が、位を継承すること)として皇帝となり、新を建国したのだ。また、王莽による新王朝の誕生は、同時に漢王朝の終わりを告げることにもなった。

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ちなみに、漢書の記録では伝国璽(歴代の皇帝に代々引き継がれている皇帝印)を所持していた王政君は、伝国璽を受け取りにきた王莽の使者「王舜」に対して、王莽を罵倒する言葉を叫んだとされている。その際、伝国璽を王舜に向かって投げつけたことにより、伝国璽は一部が欠けてしまったと言われている。

王莽の最後と「新」の滅亡

新を建国した王莽は、古き周の時代の考えを取り入れた政策を進めたが、ことごとく失敗。周辺民族に対しても、中華思想に基づき低く扱ったため、周辺民族から反発も増えていた。その結果、経済は困窮し、「赤眉軍(農民)」「緑林軍(豪族)」などの反乱勢力が広がり、各地で反乱が相次いだ。

王莽は各地の反乱を鎮圧するために軍を派遣するが、ことごとく敗戦してしまう。とくに緑林軍との争いとなった「昆陽の戦い」では、劉秀(後の光武帝)に100万の大軍を破られてしまい、王莽は不利な立場へと追い込まれることとなる。

王莽はその後も反乱軍を抑えることはできず、ついには家臣達にも裏切られてしまう。最後は反乱軍に長安まで押し入られて身柄を拘束され、処刑されてしまうのだ。こうして中国史上はじめての帝位簒奪を行なった王莽の野望と「新」の時代が終わりを告げるのである。

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王莽の身体は多くの人々により細切りにされ、無残な死を迎えたとされている。

王莽はなぜ失敗したのか

王莽は古き時代、儒教において素晴らしいとされる周の時代の政治を手本としていたが、現実性がなかったため成功せず、多くの反感を買うことになる。王莽の政策が失敗した主な原因には大きく4つあるだろう。

  • 新たな貨幣を発行するも、元々「五銖銭」の貨幣が流通していたため、浸透せずに市場の混乱を招いたこと
  • 六莞の制度を取り入れ「塩、酒、銅」などの専売特許を国の独占特許としたことが商人達の反感を産んだこと
  • 地方の豪族が所有する土地や奴隷に関して制限を設けたことにより、豪族の反感を買ったこと
  • 儒教の教えに従い名前を重視した人事を行なったことで、中身のともなわない人物が大臣のような要職に就いたこと

また、新の建国3年後に黄河が決壊して河口の場所が数百kmも離れてしまい、農業は大きな打撃を受けてしまう。その結果、困窮に苦しむ民衆が増えたのだが、王莽は対策を取らなかったため、状況は改善されず、民衆からさらなる反感を買うことになる。

王莽は儒教や古き時代の政治が最高であると思い込んでいたため、時代の背景に合わせた政策や臨機応変な施策を考えられなかったのである。

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王莽の政策は失敗したものが多いが、学問の分野の発展に関しては評価されている。講義室や図書館などを設置し、生徒が学ぶための宿舎の建設を進めた結果、中国と儒教の繋がりがより深まり、学びを求める者を増やした一面があるとされている。

まとめ

儒教を重んじ、謙虚、誠実に見えるよう振る舞い、人々の信頼を得ていた王莽。しかし、ライバルを陥れ、我が子でさえも処刑し、出世のためには手段を選ばなかった残酷な顔が隠れている。

あらゆる手をつくして帝位を簒奪して皇帝となったが、政策に関しては手腕がともなわなかった。その結果、彼が求めた王朝は、わずか15年で終わってしまったのである。

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