真珠湾戦争〜大した成果もなく火に油を注ぐ結果となった日本の奇襲

真珠湾戦争〜大した成果もなく火に油を注ぐ結果となった日本の奇襲

真珠湾戦争は、第二次世界大戦において日本海軍がアメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあった米国海軍基地を奇襲攻撃した戦いだ。この攻撃によりアメリカ軍は本拠地に甚大な被害を受けるのである。後の太平洋戦争への戦端が開かれた真珠湾戦争をわかりやすく解説していく。

真珠湾戦争とは?わかりやすく解説

真珠湾戦争とは、1941年12月8日(日本時間)旧日本海軍の空母6隻、350機からなる機動部隊および特殊潜航艇によるハワイ・真珠湾のアメリカ軍基地に奇襲攻撃を仕掛けた戦いだ。

この戦闘の結果、アメリカ軍の戦艦部隊は一時的に戦闘能力を完全に喪失する。開戦初頭にアメリカ軍戦艦隊にダメージを与え、南方作戦(太平洋戦争の開戦における大日本帝国の進攻作戦進攻作戦)を側面から援護するという戦略を達成したのだ。

戦いを指揮したのは、本作戦の立案者であり一部の反対派を押し切って作戦を実行したとされる日本海軍の連合艦隊司令長官「山本五十六海軍大将」である。

一方、アメリカ合衆国艦隊司令長官はハズバンド・キンメル大将だが、この真珠湾戦争によって引責、降格となり不遇の人ともいえる人物だ。

大成果を挙げることなく、結果的には火に油を注ぐこととなった日本の奇襲ではあったが、アメリカ軍側の被害は米軍艦6隻が沈没、2345人の死者数をだしている。日本側はといえば未帰還の航空機29機、死者64人、捕虜1名となっている。

卑怯な「だまし討ち」と批判された戦い

昭和天皇は、当時の首相である東条英機に開戦通達を徹底させるように命令。この命令は外務大臣であった東郷茂徳に伝達された。そして駐米大使であった野村吉三郎宛てに公伝第九〇一号を送付、その後に送付された第九〇二号は14分割もされていた。

この長文であったとする内容は、最終的な要求を文書提示することで交渉の終わりを示唆している。相手国がそれを受け入れなければ交渉を打ち切る意思を表明するとされていたもので、日本帝国政府の対米通牒の覚書であったのだ。

また、アメリカに対するこの宣戦布告の通達は、真珠湾攻撃の30分前にアメリカ側に届く予定だったが、駐米大使館が解読に手間取ったため、実際にアメリカ側に届いたのは30分以上あとになってしまった。ことから、当時のルーズベルト大統領に卑怯な「だまし討ち」との批判をうけた戦争でもあった。そして、この戦いによって3年8ヶ月にも及ぶ太平洋戦争が始まったのである。

真珠湾戦争はなぜ起こったのか?

日本が真珠湾戦争に踏み切った原因には、外交的な側面と戦略的な側面の2つが挙げられる。ここでは真珠湾戦争がなぜ起こったのかをわかりやすく解説するので、参考にして欲しい。

日本のアジア進出に対するアメリカの反発

当時、日本は日中戦争の真っただなかであったわけだが、日本がアジアへの進出にともない発表した「東亜新秩序声明(日、満、華を一体とした新社会設立が戦争の目標であること)」にアメリカが強く反発したのだ。

日本のアジア進出をなんとしても阻止したいアメリカは、日本に対し、石油や物質の輸出を禁止するという制裁を行った。この制裁によって石油全体の8割をアメリカの輸入に頼っていた日本は、大きなダメージを受けることになる。

日中戦争における戦艦や航空機を動かせなくなることや、これまでの戦争による多額の投資を考えると後に引けない状況であった。

1941年4月より、この制裁に対処することを目的に日米交渉を開始。駐米大使の野村吉三郎から日本側の提示した2つの案(いわゆる甲案・乙案と呼ばれている)に対してハル国務長官は拒否している。

また、このときアメリカ側から提示されたのがハル国務長官による外交文書「ハルノート」である。このハルノートを簡単に説明すると、日本が中国大陸から手を引きイタリア、ドイツとの同盟を破棄、満州事変以前の状態に戻すようするなど日本軍において酷い要求をしてきた内容だったのである。

この「ハルノート」の提示によって、日本は対アメリカ戦を決意したことは間違いないだろう。

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日本側が提示した「甲案・乙案」は、それまでの主戦論を棄てて、撤兵問題などを日本側が妥協したものだ。まず、アメリカ側に甲案を提示し、拒否された場合はさらに譲歩した内容が盛り込まれた乙案を提示するという2段構えで、日本はアメリカとの交渉に臨んだ。

超短期決戦を目指した作戦

アメリカとの戦争に関して、当時の日本軍上層部は、「太平洋を渡るアメリカ軍を徐々に弱らせて、日本本土近海での総力戦で壊滅させる」という日露戦争で戦果を挙げた戦略を考えていた。この戦略に対して反発したのが、真珠湾攻撃を立案・指揮した山本五十六だ。

山本五十六は、総力戦による消耗戦(軍隊だけではなく国家そのものが戦争に協力する戦い方)が当時の主流であることをよく理解していた。しかし、アメリカとの資源の差が歴然であったため、この戦法は無謀と考えていたのである。

そこで、資源の量で劣る日本が勝つためには、超短期決戦によってアメリカが戦意を失くすほどの猛攻を行い、講和(交戦国間の合意で戦争を終結、平和の回復をすること)に持ち込むしかないと考えたのだ。

こうして立案されたのが真珠湾攻撃だ。真珠湾を攻撃することによりハワイに停泊中の戦艦のみならず、港の機能も破壊することにより基地拠点としての活動を喪失。ハワイの拠点を失ったアメリカ軍は、アメリカ本土であるサンフランシスコを拠点とせねばならなくなる。つまり、日本近くの基地拠点を壊滅させることで、補給ができなくなるアメリカンに対して、日本が有利に戦いを進められるのだ。

また、アメリカの領土が戦場になることで、アメリカの世論が反戦ムードに傾くという目論見もあった。世論が反戦ムードになれば、アメリカンは総力戦による消耗戦が難しくなるため、日本にとって有利な条件でアメリカンとの講和が実現すると考えたのだ。

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第二次世界大戦前の戦いは、軍の総力戦による大規模戦闘が主流だった。しかし、第二次世界大戦中は、自陣を起点に小隊規模で進軍し、相手の戦力を徐々に削っていく消耗戦が主流となる。つまり、兵士や兵器をその都度補填し、補充の限界を迎えた側が負けるというものだ。こうした消耗戦には、国家が一丸となって武器や弾薬の製造、兵力の補充などを行い、戦争のために尽力する必要があるのだ。そういう意味では、日本とアメリカの差は歴然といえるだろう。

真珠湾戦争の経緯

真珠湾戦争の経緯は、無理難題を押し付けたハルノートの内容に対し、日本側がアメリカ側の最後通牒(交渉相手に対し示す最後の要求・提案)とみなしたことから始まる。

また、このことから御前会議(大日本帝国憲法下の日本において天皇臨席の下で重要な国策を決める会議)により日米開戦決行の流れとなるのだ。

この御前会議の5日前に択捉島に集結していた日本海軍機動部隊の主力とする空母艦載6隻はハワイに向けて出港する。この日は、ハルノートが提示された日でもある。

時系列

時系列で、真珠湾戦争の戦いまでの流れを追うことでわかりやすくなるので参考にしてほしい。

1941年1月
真珠湾戦争の作戦を立案
山本五十六はアメリカとの決戦に備えて真珠湾戦争の作戦を立案する。
1941年4月
日米交渉を開始
日米戦争の回避、または延引を目的とし約1年間(4月~11月)にわたる非公式外交工作および開戦外交交渉が始まる。
1941年11月5日
御前会議による日米交渉最終案を決定
具体的な点が異なる、甲案・乙案が決定する。
1941年11月13日
岩国航空基地により連合艦隊の最終打ち合わせ
「全軍将兵は本職と生死をともにせよ」と訓示、日米交渉が妥結した場合は直ちに出動部隊は帰投するよう命令する。
1941年11月26日
アメリカは日本側が提示した2つの案を拒否
ハル国務長官は駐米大使の野村吉三郎と補佐役の来栖三郎に外交文書ハルノートを提示する。択捉島に集結していた南雲中将率いる空母艦載6隻はハワイに向けて出港。
1941年12月1日
御前会議において対米宣戦布告が決議決定
翌2日、暗号機動部隊により暗号電文「二イタカヤマノボレ一二〇八」(一二〇八⁼12月8日)が送られる。

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二イタカヤマとは当時、日本領であった台湾の山の名前だ。真珠湾戦争では作戦決行を意味する暗号として使われた。
1941年12月7日10時
アメリカの電信課員が対米通牒の解読を開始
日本軍は7日の午前7時の段階で最終部分の送付を完了している。
1941年12月8日1時30分
淵田中佐により全軍突撃の命令電文が発報
電文「トラ・トラ・トラ」は「我、奇襲に成功セリ」という意味であるが、本来は奇襲攻撃を開始することが可能であることを意味していた。
攻撃隊が爆撃を開始
日本軍の航空機が真珠湾基地に急降下接近、250キロ爆弾による爆撃を開始。湾内に停泊中だったアメリカ軍の艦船、飛行場、格納庫、航空機などを爆撃。なお、さまざまな要因が重なり、実際に日本側からアメリカ側へ開戦通告が渡ったのは攻撃から30分以上あとになる。
1941年12月8日午後12時29分(アメリカ時間)
ルーズベルト大統領が議会と国民に向けて演説
ルーズベルトは「この日は醜行として生き続けるでしょう」と演説、日本軍のだまし討ちのような攻撃に国民全体を総動員するプロパガンダが盛んになる。

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この戦端により、日本軍は12月10日に英・東洋艦隊の撃破、シンガポールの戦いと一気に南下するも、アメリカ軍のミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦いなどの反攻が始まるのだ。

真珠湾戦争は成功だったのか?

当時、世界的にも航空機が浸透し始めたばかりで、従来の艦隊攻撃を主とする戦いよりも、空爆を主とする奇襲攻撃作戦は斬新なものであった。さらに、敢えて普段通過しない太平洋の北側の航路を採用、通信の秘匿を追求した奇襲によってハワイに停泊中の戦艦とアメリカ軍の兵力を少なからずそぐことに成功したことで大本営はこの作戦に満足したであろう。

しかし、空母・船の修理ドック・燃料タンクなどの重要施設を破壊し、継戦能力を奪うほどの打撃は与えていない。作戦では徹底的に壊滅を狙っていたにもかかわらずハワイの港としての機能は残ったままとなり、空母もこのとき真珠湾には停泊しておらず無傷のままとなる。

このことから、山本五十六の考えが士官に十分な理解を得ていなかったことが覗える。本来、山本五十六の目的は総力戦、消耗戦を避けて基地拠点の重要施設の破壊、講和に持ち込むことだったが、軍令部は敵の艦隊を削ることが目的であるとの認識であったのだ。

また、アメリカ軍に発見されて攻撃されることを恐れた艦船の指揮官は撤退を指示するなど、山本五十六をはじめ士官たちの伝達の不十分さが露呈することとなったのである。

そして結果的には、アメリカ国民をルーズベルト大統領下に結束をせしめる状況となり、「リメンバーパールハーバー(真珠湾を忘れるな)」の合言葉のもと、アメリカは反戦どころか反日と戦争へ一致団結することになる。このような結果を見ると、日本の真珠湾攻撃は大した成果もなく、アメリカに対して火に油を注ぐだけだったといえるだろう。

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真珠湾攻撃は、山本五十六の「国民の協力を得ることができないようにする」という思惑であった裏を行くこととなったのだ。そしてアメリカ軍は驚異的な立ち直りと反戦によって、3年8ヶ月におよぶ太平洋戦争は、日本の主要都市焼尽、降伏という形で幕を閉じる結果となる。

そもそも山本五十六の考えは甘かった?

当時、日本の10倍にも上回る経済力を保有した大国アメリカに対して無謀、壊滅的な戦略を立てたことは投機的(機会を利用して利を得ようとする行為)であり、山本五十六の作戦が成功しても戦争は継続された可能性が高いとの見方もある。

そもそも太平洋戦争は、日本対アメリカの1対1の戦いではなく第二次世界大戦のうちの戦いの一幕に過ぎないという側面を持っている。

通常の戦争であれば国対国、もしくは数か国対数か国の戦いとなるが、真珠湾攻撃を仕掛けたときは、第二次世界大戦の真っただなかだったため、国と国との戦いというよりは全世界が敵味方で戦っているという状態であった。この捉え方からすると大局的には日本対アメリカの構図ではないのである。

講和は、仲裁国がいてはじめて成立するものだが、第二次世界大戦時では全世界をもって敵味方の戦いがで二分化して争っていたため、戦争を止めてくれる仲裁国がいなかった。

戦争の当事者である日本が和平を提案することはとても難しく「戦争をやめる=敗北を認める」ということになるため、なんのメリットのないまま相手の条件をほぼのむ形となるのだ。

このようなことから、山本五十六の戦略は和平交渉の間に入ってお互いの間を取り持ってくれる仲裁国の有無を考えていない、欠点だらけの戦略だったともいわれている。

真珠湾戦争の教訓

山本五十六は、この空爆による作戦が採用されないのであれば連合艦隊司令長官を辞任する覚悟をもっていた。真珠湾戦争は、戦術的には輝かしいものではあったが、独創的な戦術ゆえに山本五十六の考えを理解していたものは海軍なかでも、ごく一部の人物に過ぎなかった。

また、この戦闘では、敵戦力に損害を与えることはできたが、戻ってきた航空隊に爆弾を積み直し、再び出撃させることができなかったため、結果的には超短期決戦の目的を果たすことができなくなったのである。

一方、アメリカ軍側では日本軍の別部隊であった伊号潜水艦、甲標的部隊の潜水艦を米国駆逐艦ウォードが撃沈、アメリカ軍には国籍不明のただの誤射とされてしまう。自国の言い分を通して武力行使をするのが戦争である。この真珠湾戦争も日本軍が「自国の言い分」をやむを得ず武力行使に変えたが故の戦いといえるだろう。

真珠湾戦争〜大した成果もなく火に油を注ぐ結果となった日本の奇襲toku168

結果的に戦火を広げただけとなってしまった真珠湾戦争からは、以下のような教訓を得られるだろう。
  • 独創的な戦略は周囲に受け入れられにくい
  • 伝達を疎かにすると十分な成果を挙げられない
  • 上司と部下の意思統一の重要性

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