ポエニ戦争~ローマとカルタゴの間に起こった地中海の覇権を賭けた戦い

ポエニ戦争~ローマとカルタゴの間に起こった地中海の覇権を賭けた戦い

ポエニ戦争とは、ローマとカルタゴが西地中海の覇権をめぐって衝突した戦争の総称だ。この戦いの結果、ローマはイタリア半島の統一やイベリア半島の地中海沿岸部などを獲得した。今回はポエニ戦争の発端からポエニ戦争終結後のローマ社会の変化までを簡潔に解説していく。

ポエニ戦争とは?わかりやすく解説

ポエニ戦争とは、前264年~前146年にイタリア半島やシチリア島、アフリカ大陸北岸の都市カルタゴなど、地中海に面している多くの地域でローマとカルタゴが衝突した戦争だ。

120年近くにわたる長い戦いの結果、カルタゴは滅亡し、ローマはカルタゴが統治していたイベリア半島の地中海沿岸部やアフリカ大陸の北岸部まで支配地域を広げた。そしてローマは、西地中海の覇者としての地位を盤石なものとしたのである。

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およそ120年続いたポエニ戦争には、大きく3度の節目がある。そのため、一般的には各節目を第1次ポエニ戦争、第2次ポエニ戦争、第3次ポエニ戦争としている。

【第一次ポエニ戦争】シチリア島をめぐる戦い

前264年~前241年の間に起こった第一次ポエニ戦争では、ローマとカルタゴがシチリア島の覇権をめぐって戦った。この頃、ローマは勢力が及ぶ地域を広めることに力を入れており、イタリア半島のほとんどを手中に収めていた。

一方、北アフリカの一大勢力カルタゴは、シチリア島を含む地中海西側一体に勢力を拡大しようと画策していた。その一環としてシチリア島の「メッサナ」と呼ばれる地域を奪い、イタリア半島とシチリア島の間の海峡を閉鎖してローマを脅したのである。

第一次ポエニ戦争の経緯と結果

ポエニ戦争の開戦にともない、ローマは地中海を渡ってカルタゴに攻め入るため、海軍の増強に力を入れた。ローマは陸上戦の技術を使えるよう、敵船に乗り込む「コウルス」という錨と渡し板を組み合わせた武器を開発。前260年のミュラエの戦いではコウルスを使った作戦が成功し、ローマは海戦での初勝利を収めたのだ。

続く前256年のエクノモス岬の戦いでもコウルスを活用した戦術で、ローマは勝利を収める。ローマ軍、カルタゴ軍の戦船はそれぞれ350隻ずつ、乗組員と兵士が15万人という大規模な戦闘であった。

海上での激しい戦闘が断続的に繰り広げられたなか、ローマ軍はカルタゴへの上陸を成功させたが、翌年の前255年に敗北を喫してしまい、指揮を執っていたローマ軍の執政官レグルスは、兵力のほとんどを失うこととなる。

その後もローマは敗戦の流れを断つことができず、前249年のドレパナの戦いでもカルタゴに敗れてしまう。同年には別の地域に展開していたローマ艦隊も暴風雨で大きな被害を受け、ローマは海軍による大規模な作戦が行えないほどまで弱体化してしまうのだ。

また、ドレパナの戦いの後も、ローマとカルタゴはシチリア半島周辺で小競り合いを続けていた。しかし、なかなか決着が付かない状況に業を煮やしたローマは、裕福な市民の援助を受けて艦船を200隻建設し、前242年にシチリア島へ派遣する。

翌年カルタゴも250隻の艦隊を組織し、アエガテス諸島沖の戦いが勃発したが、今回はローマが優位であった。カルタゴ側は乗組員が経験不足で、船に荷物を満載して動きが鈍かったのに対し、ローマは戦闘態勢を整えていたのである。

アエガテス諸島沖の戦いはローマの勝利で決着がつき、ローマとカルタゴは和平条約を結んだ。こうして第一次ポエニ戦争は終結したのだ。

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第一次ポエニ戦争の結果、シチリア島は正式にローマの一州となった。一方、敗戦したカルタゴは膨大な賠償金をローマに支払うこととなったのだ。

【第二次ポエニ戦争】カルタゴの英雄「ハンニバル」が活躍した戦い

第一次ポエニ戦争に敗北したカルタゴだが、内部ではローマへの恨みを募らせている者も大勢いた。カルタゴの将軍ハミルカル・バルカスもそのうちのひとりで、報復の準備のため、イスパニアに植民市の建設を始めた。彼の死後は息子のハンニバルが事業を引き継ぎ、前218年にはカルタゴの大軍勢が完成していた。

反撃の準備を整えたハンニバルは軍勢を率いてアルプスを越え、イタリア北部に侵攻する。こうしてハンニバルの一連の行動が火種となり、「ハンニバル戦争」とも呼ばれる第二次ポエニ戦争が勃発したのだ。

前218年~前202年と、第一次ポエニ戦争よりも短い期間であるが、トレッビア川の戦いやザマの戦いなど、地中海沿岸地域で多くの衝突が起きた。

第二次ポエニ戦争の経緯と結果

アルプス山脈を超えたカルタゴ軍と、カルタゴの侵攻に対抗しようとしたローマ軍は、イタリア北部を流れるトレッビア川で対峙した。

この戦いではカルタゴ軍がローマ軍への挟撃に成功し、ローマ軍を一時要塞都市ピアチェンツァに追い込むことになる。トレッビア川の戦いが勃発したのは寒さが厳しい12月だったため、ハンニバルはピアチェンツァの包囲を諦めたが、結果としてはカルタゴの勝利で終わった。

またカルタゴは、その後のトラシメネス河畔の戦いとカンナエの戦いでもハンニバルの作戦によってローマに勝利を収めることになる。一方、連敗が続いたローマは、指揮官と多くの兵士を失ってしまうのだ。

大敗が続いたローマはカルタゴとの戦いを続けるため、大きな港を持つシチリア島の要塞都市シラクサを勢力圏に加えようと侵攻を開始。前212年、女神アルテミスを称える祭りの最中に攻撃を仕掛け、シラクサを陥落させた。

シラクサを勢力圏に入れたローマは、ここから勝利を重ねることになる。前207年のメタウルス川の戦いでは、将軍クラウディウス・ネロの機転でカルタゴ軍に大きな損害を与えた。

その後スキピオが率いるローマ軍は前204年にカルタゴに上陸し、現地の兵を撃破。ハンニバルは急遽故郷に呼び戻され、カルタゴ近郊に広がるザマの平原で両軍が激突することとなる。

これが前202年10月19日のザマの戦いだ。開戦当初の兵力はローマ軍が43,000人、カルタゴ軍が48,000人と近い数字であったが、戦死者はローマ軍が6,500人、カルタゴ軍が20,000人と、ローマの圧勝となっている。この戦いの結果、ローマとカルタゴの間に再度和平が結ばれ、第二次ポエニ戦争は終結したのだ。

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第二次ポエニ戦争の初期では、カルタゴの名将ハンニバルによって、ローマは敗戦が続くことになった。しかし、ローマ側にもスキピオという名将が誕生し、最終的には勝利を収めることになるのだ。

【第三次ポエニ戦争】カルタゴの陥落とポエニ戦争の終結

第二次ポエニ戦争終結後、カルタゴはローマの同盟国であるヌミディアに領土を併合された。カルタゴの残存勢力は国土を回復しようと蜂起するが、ローマはこの行動を戦争行為とみなしてカルタゴを包囲。こうして前149年~前146年に第三次ポエニ戦争が勃発したのだ。

第三次ポエニ戦争の経緯と結果

カルタゴの残存勢力の動きに対して、ローマ軍はマニウス・マニリウスの指揮のもとカルタゴの街を包囲。一方カルタゴは、包囲されながらも街全体を兵器工場にし、婦女子を友好国に疎開させて戦争の準備を進めた。

前147年にはスキピオ・アエミリアヌス率いるローマ軍が、カルタゴの陸上軍を破って沿岸に防波堤を築き、カルタゴ勢力の船が出入りできない状況を作っている。

前146年、ついにローマ軍はカルタゴの城壁を破り市街地へ侵攻。その8日後には最後の砦も陥落し、カルタゴの町を焼き払うことで第三次ポエニ戦争は終結している。そして、この戦いでカルタゴは滅亡することとなるのだ。こうして、およそ120年におよんだポエニ戦争が終結することになる。

ポエニ戦争がもたらしたローマ社会の変化

120年近くにわたるポエニ戦争に勝利し、ローマはイタリア半島だけでなく、イベリア半島の地中海沿岸部やアフリカ大陸北岸部など、広大な領土を持つこととなった。

しかし、度重なる戦争の結果、ローマ軍の主力である中小の自作農は疲弊し、没落していった。そのようななか、兵器や食力などを提供した裕福な平民層は、富を蓄え、従来の貴族階級「パトリキ」に合流して新貴族「ノビレス」という層を形成したのである。

富が一極に集中し、国の基盤である多くの民が困窮することは、ローマ軍の弱体化にもつながり、ポエニ戦争以降のローマの歴史に暗い影を落とすこととなる。

まとめ

ポエニ戦争はおよそ120年の間、ローマとカルタゴが地中海の覇権をめぐって争った戦いだ。第二次ポエニ戦争では、ハンニバルの活躍によってカルタゴが勝利を収める場面もあったが、終始ローマの強さが目立った戦いでもある。

ポエニ戦争によって、ローマは広大な領土を獲得したが、一方で長期間の戦争は民を疲弊させ、国を揺るがす要因ともなった。

ポエニ戦争からは、戦争で勝利して一時的に国を強く見せることはできても、しっかりとした基盤がなければ国家を弱体化させる要因になり得ることが読み取れる。単なる歴史としてではなく、現代への教訓として心に留めておきたい。

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