日露戦争の原因とは?日本が列強国の仲間入りを果たした戦争について解説

日露戦争の原因とは?日本が列強国の仲間入りを果たした戦争について解説

明治維新からわずか30数年後、日本と世界の大国ロシアとの間で日露戦争が始まった。この戦争によって、日本は列強国の仲間入りを果たすことになる。本記事では、日露戦争の原因や結果、日本が得たもの、世界への影響を解説していく。

日露戦争とは?わかりやすく解説

日露戦争とは、1904年(明治37年)2月の宣戦布告から、翌年8月のポーツマス条約までの期間、日本とロシアの間で行われた戦いのことである。

日露戦争は、白人の帝国主義に対抗して日本の独立と安全を守るための祖国防衛戦争だった。奉天の会戦、日本海海戦などの激戦の末、日本の勝利で幕を閉じたのだ。

日露戦争の目的

日本における日露戦争の大きな目的の一つが、ロシアの南下政策に対抗することだった。当時、東南アジアの国々は西欧諸国の植民地となっていた。

日清戦争後の清国では、ロシア、フランス、ドイツ、イギリスによって領土の分割が行われていた。特にロシアは満州全域を支配し、朝鮮政府を取り込んで朝鮮海峡に面した港を手に入れようとしていた。日本の独立と安全を守るためには、ロシアの朝鮮進出をくい止めなければならなかったのだ。

一方、ロシアにおいては、不凍港を得ることが不可欠だった。なぜなら、ロシアの港は冬になると凍ってしまい、使い物にならないからだ。各地で植民地支配を続けるためには、植民地の反乱に備えて冬でも出航できる港が必要だった。そのため南下政策をとり、日本と衝突することになる。

日露戦争の原因

日露戦争の原因の一つに、朝鮮半島の情勢を挙げることができる。日本の勝利で幕を閉じた日清戦争後、朝鮮は「大韓帝国」として清から独立することになる。

しかし遼東半島の返還により、親露(ロシア)派が台頭して、親日派との争いが始まったのだった。韓国政府のロシアへの傾倒をよいことに、ロシア政府は一気に南下政策を推し進めた。

ロシアは1903年(明治36年)には黄海に接する港を手に入れて、遼東半島沿岸や朝鮮の西海岸に圧力をかけ、さらには対馬への進出を目論んでいた。このような朝鮮半島の情勢からも、日本とロシアの対立は避けられない状況になっていったのだ。

日清戦争の勝利と三国干渉

1895年、日清戦争に勝利した日本だったが、下関条約についてロシア・フランス・ドイツから横やりを入れられた。いわゆる三国干渉である。

その内容は「遼東半島の割譲は東洋平和を脅かすものであるため、清国に返還せよ」というものだった。明治政府はこの要求を拒否できず、やむなく遼東半島を返還している。なぜなら拒否すれば三国を相手に戦うことになるからだ。

その後、この三国とイギリスは清国から領土を奪っていくことになる。特にロシアは日本が返還した遼東半島の旅順と大連を租借した。このような状況下で、日本はロシアへの警戒を強め、軍事力を強化していくことになるのだ。

三国干渉の後、清国では列国に領土を奪われたことに対する抵抗が強まり、白人の排斥を望むようになっていった。1900年になると義和団事件が起こり、義和団と呼ばれる宗教団体が清国全域で暴動を起こし、教会を焼いたり西洋人を殺したりしている。それに同調した清国政府は、列国へ宣戦布告し北清事変へと発展したが、日本を中心とする連合国側の勝利に終わった。

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日清戦争後、日本は国家予算の半分を使って軍事力を大増強している。日清戦争時の陸軍は7個師団だったものを13個師団にし、海軍も6万トンだったのを25万トンまで増やしている。

日英同盟の締結

イギリスは、ロシアの清国への進出に対して警戒を強めていたが、南アフリカ戦争の最中でアジアへ力を注ぐことができない状況だった。そこで日本と同盟を結び、ロシアの東アジア進出を抑えようと考えたのだ。

また日本側もロシアに対抗するための後ろ盾が欲しいことから両者の利害が一致し、1902年1月に日英同盟を締結した。日英同盟は、日露戦争中の1905年に更新され、ロシア艦隊への石炭の供給をしないことや、寄港を禁じることで日本を援護している。

日露戦争の結果

1904年2月に始まった日露戦争は、1905年8月に日本の勝利で幕を閉じた。

当時のロシアは、日本の10倍の国家予算を持つ世界5大強国の一つだった。鉄の生産にいたっては日本の100倍以上の能力を持つロシアが相手では、日本軍は圧倒的に不利と思われていた。

その日本軍が大勝利を収めたのが奉天の会戦である。1905年2月奉天の会戦では、世界最強と言われていたロシアのコサック騎兵を相手に機関銃で戦うという作戦で、完全に封じ込めたのだ。しかし、すでに日本軍のダメージも大きく、どうにかして戦争を終わらせなければならない状態だった。

戦争の継続が危ぶまれるなか、1905年5月に迎えた決戦が、世界屈指のバルチック艦隊との日本海会戦である。東郷平八郎が、バルチック艦隊のルートを見破ったのは有名なエピソードとして知られている。

また、敵の目の前で回頭する、丁字戦法(ていじせんぽう)や日本が独自に開発した下瀬火薬(しもせかやく)が威力を発揮した結果、バルチック艦隊は、次々と大火災を起こして全滅したのだった。

一方、ロシアでは日露戦争の最中、1905年1月に国内で「血の日曜日」と呼ばれる事件が起きていた。さらに、各地でも労働者の暴動が起きており、6月には戦艦ポチョムキンの水平が反乱を起こしている。これらの内政問題もあり、ロシア政府は日露戦争の継続を断念して、アメリカの仲介によるポーツマス条約(日露講和条約)が結ばれることになったのである。

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文血の日曜日はおよそ10万人にもなる労働者とその家族に対して、軍隊が発砲し、多数の死傷者が出ている事件である。ロシアの首都ペテルブルクで、ニコライ2世に対して労働者たちが起こした請願行動が発端であった。労働者たちは、労働者の権利や待遇改善、立憲政治の実現、日露戦争の停止などを要求したのだ。

日露戦争で日本が得たもの

大国ロシアとの戦争で日本は勝利を収めたものの、得たものはないと大多数の国民が感じていたようだ。約84,400人(データによっては約118,000人)の戦死者、14万人以上の戦傷者が出たにもかかわらず、国民が納得できるような講和条件ではなかった。

莫大な軍事費を捻出するために、重い税金に耐えた国民は、何らかの形で見返りを期待していたのだ。当初の目的である韓国や満州におけるロシアの撤退は勝ち得たのだが、国民にとっては屈辱的で大失敗に終ったとされたのだった。

では、日本が日露戦争で得たものは何だったのだろうか。ここでは、日露戦争で日本が得たものについて紹介する。

ポーツマス条約によるロシアとの関係改善

日露戦争後、日本側はロシアからの報復があるのではないかと、警戒を強めていた。しかしロシア側は、日露戦争の敗北を機に、外交政策の中心を東洋から欧州に戻そうとしており、そのためには日本との関係を良好にしたいと考えていた。

そこでロシアは日本に報復する考えがないことを、ポーツマス条約に規定された内容を守ることで関係の改善を図っていったのだ。日英関係、日米関係悪化の影響もあり、1907年から1916年まで、4度にわたり日本とロシアは日露協約を結んでいる。

ポーツマス条約の内容は以下のようになっている。

  • ロシアは韓国における日本の政治・経済・軍事上の利益を承認すること
  • ロシア軍は満州から撤退すること
  • ロシアが持つ旅順・大連の租借権を日本へ譲ること
  • 南満州の鉄道に関する全ての権利と財産を日本へ譲ること
  • 樺太の北緯50度以南を日本へ譲ること
  • 沿海州・カムチャッカ半島での漁業権の承認

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日本はポーツマス条約によってさまざまな権利を獲得している。ただし、賠償金はなかった。日本には戦争を継続するだけの余力がなく、講和を成立させるには、賠償金の支払い要求は放棄するしかなかったのだ。

列強国の一国として認知される

日露戦争で日本が勝利したことは、世界に大きな衝撃を与えた。日露戦争後、日本の保護国となった韓国において、1909年伊藤博文が暗殺されたことから、1910年に韓国併合がなされた。

そして1911年、日米・日独・日英修好通商条約を結び、関税自主権を確立し、日本は幕末より続いた不平等条約を撤廃した。日本は列強国として世界に認められていったのだ。

日露戦争で日本が負けていたら

世界中の予想通りに日本が日露戦争で負けていたら、どのような状況が予想できるだろうか。まず、朝鮮半島がロシアの支配下になり、日本に対して厳しい要求をしたと考えられるだろう。

例えば北海道や対馬、九州がロシアに占領されていたかもしれない。また日本は国力が低下し、列強国となることもなく、アジア各国の独立運動も先延ばしになっただろう。

まとめ

日露戦争は、日本が白人の帝国主義に対抗し、自国領土と自国民を守るための戦いであった。その勝利は世界を驚かせ、アジア各国の独立へとつながる、大きな流れを作ったと言えるだろう。

しかし国内では当初の目的が達成された喜びよりも、講和条約に対する不満が尾を引いてしまったのだった。

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