日本が鎖国をしたのはなぜ?鎖国が与えた影響や開国の理由も解説

日本が鎖国をしたのはなぜ?鎖国が与えた影響や開国の理由も解説

鎖国とは、日本が江戸時代にとっていた政策のことだ。鎖国したことで海外から遮断された日本は、良くも悪くも世界の中で独自の道を歩んでいくことになった。ここでは、日本が鎖国した目的と、鎖国が日本に与えた影響、そして日本が開国した理由について簡単に説明する。

鎖国の意味とは?わかりやすく解説

鎖国とは、江戸時代の日本がとっていた対外政策と、その外交政策をとっているときの日本を指す言葉だ。

正式には、1639年にポルトガル船の来航が禁止されてから、1853年にペリーが来航して日米和親条約が結ばれて開国するまでの間の215年間、鎖国政策がとられていたとされている。当時の日本は、鎖国政策によって海外との外交と貿易を制限しようとしたのだ。

ただし、完全に外国との交流が絶たれていたわけではなく、次にあげる4ヵ所の港ではそれぞれ特定の国との貿易が行われていた。その4ヵ所は四口(よんくち)と呼ばれている。

  • 長崎口 → オランダ・中国
  • 対馬口 → 朝鮮
  • 薩摩口 → 琉球
  • 松前口 → アイヌ

近年の研究では、制度としての「鎖国」はなかったと言われていて、歴史学的には「海禁政策」と呼ばれることが増えている。海禁策は、当時の東アジア諸国がとっていた海外外交を制限する政策で、より当時の日本の実情に近いと考えられるのだ。

ちなみに、当時、琉球はまだ琉球王国で独立国家扱いだった。またアイヌ民族は国家として扱われていなかったが、交易は行われていたぞ。

鎖国した理由・目的

江戸時代の日本が鎖国を行ったのには、主に2つの理由と目的がある。一つずつ説明しよう。

貿易の独占

一つ目の理由は、幕府が貿易の利益を独占しようとしたことだ。

鎖国とは、貿易を極端に制限する制度だといえる。江戸時代以前、安土・桃山時代においては、戦国大名が各自で海外との貿易を行っていた。

しかし、江戸時代に入ってからは、各藩の力が増すことを防ぐために、海外貿易は幕府が独占して行うことにしたのだ。そのためには、取り締まりしやすくするために窓口を限定する必要があった。だから、上記の4ヵ所以外の港で海外と往来することを禁じたのだ。

また、幕府には、ポルトガルとスペインの船が来航するのを排除したいという目的もあった。当時、ポルトガルとスペインの船はキリスト教の宣教師を乗せていて、貿易と同時に布教活動を行っていた。

すでに国内ではキリスト教が急速に広がっていて、幕府による支配体制にも影響が出始めていた。キリスト教の勢力拡大を防ぐために、宣教師の入国を止める必要があったのだ。

支配体制の維持・強化

二つ目の理由は、幕府の支配体制の維持・強化をはかるためだ。この時期の日本では、キリスト教が急速に広がっていた。

この時代のポルトガルとスペインは、外国に対する政策として、まず宣教師を送り込んでキリスト教徒を増やし、その後、キリスト教徒を異教徒の支配から救うという名目で軍隊を送り込むという方策をとり、領土拡大を行っていた。

つまり幕府は、日本国内のキリスト教徒の数が増えれば、次にポルトガルとスペインが軍隊を派遣してくるとして恐れたのだ。

さらに、幕府はすでに国内でキリスト教に改宗している民衆(キリシタン)の反抗を恐れて、1612年に禁教令を布いて日本国内でのキリスト教の信仰を禁じた。だが、キリシタン側は幕府の支配体制に反抗する意思を見せ始める。最も有名なのが、1637年に長崎で起こった島原の乱だ。

島原の乱は、島原・天草の乱、もしくは島原・天草一揆とも呼ばれる、日本の歴史に名を残すキリシタンによる大規模な一揆だ。幕府はこの一揆を、幕府の支配体制を揺るがすものだとして、軍を派遣して早期に鎮圧した。時間をかけることで、スペイン・ポルトガルが介入してくる可能性を恐れたのだ。

鎮圧は成功し、わずか4ヶ月で反乱は終わった。島原の乱の1年半後に、ポルトガル人宣教師は日本から全員追放されて、鎖国政策が実質的にスタートしている。

鎖国がもたらした良い影響と悪い影響は?

鎖国政策は、日本にどのような影響をもたらしたのか。次は、鎖国がもたらしたメリットとデメリットを紹介する。

鎖国によるメリット

まずは、鎖国がもたらしたメリットの説明からだ。

・支配階層が支配体制を維持しやすくなった

鎖国によって海外からの情報を絶ったことで、新たな価値観が広がらなくなり、元から存在した価値観が唯一のものとなった。それにより、民衆は自分が住む社会が当たり前のものだと思うようになり、不満を持ちにくくなっていった。このことは、幕府の支配体制を維持しやすくしている一因だったと言えるだろう。

・争いのない社会が築けた

海外からの情報を遮断し、海外との交流や外交を限定したことで、日本国内には戦争のない安定した社会が築かれた。情報の遮断は、民衆の反乱を未然に防ぐ効果を持ち、海外との交流を絶ったことは、日本が外国との戦争に巻き込まれるのを防いだのだ。

結果として、江戸時代には200年以上の間、大規模な反乱や、戦争のない社会が築かれている。

・日本独自の文化が発展した

海外との交流が途絶える中で、日本では独自の文化が発展した。この時に発展した日本文化は、現代の日本の基盤として受け継がれていると言えるだろう。また、浮世絵などは海外でも高く評価されていて、日本を代表する芸術となっている。

現代の日本人はあまり意識していないかもしれないが、江戸時代に生まれた言葉や文化・芸術の多くが、現代の日本の生活には残されているのだ。日本の文化の基礎を築いたという事実は、鎖国がもたらしたメリットの一つといえるだろう。

鎖国によるデメリット

次に、鎖国がもたらしたデメリットを説明する。

・技術発展に取り残された

鎖国によって海外の情報が入りにくくなったことは、日本が海外での技術の進歩から取り残される結果を招いた。当時のヨーロッパでは産業革命がおこり、革新的な新しい技術が次々と生み出されていた。また、医学などの分野においても外国の方が進んでいたと言われている。しかし、日本にはそれらの技術がほとんど伝わらなかったのだ。

その結果、幕末に開国するころには、日本と諸外国とには大きな技術的な隔たりがあった。軍事的にも日本は大きく後れを取ることとなり、幕末の動乱の際に外国との戦争を行った藩は、圧倒的な軍事力の差を見せつけられている。

民衆の生活においても、産業革命で豊かになった欧米の民衆と比べて、日本の民衆は貧しいままであった。開国によって外国の技術が取り入れられたことで、明治時代に入ってからは日本の民衆も豊かさを享受できるようになっていく。

・官僚組織が硬直化して、変化が無くなった

新たな情報が入ってこなくなったことは、民衆の支配を容易にしたが、同時に支配階層の硬直化を招いた。結果として、幾度かの改革以外には、新しい政策はとられなくなっていく。大規模な変革が行われず、江戸幕府の社会は緩やかに衰退していったと言えるだろう。

さらに、支配者層が硬直化し、保守化が進んだために、開国によって入ってきた新しい価値観との間で大きな衝突が起こった。それが、幕末の動乱へとつながり、日本は激動の時代へと進んでいくこととなる。

日本が鎖国をやめて開国したのはなぜ?

日本が鎖国をやめて開国したのは、外国からの圧力が原因だ。

最初に日本に開国を迫ったアメリカは、捕鯨船の補給のために日本の港を利用しようとした。そのために、ペリーを日本に派遣したのだ。蒸気機関の知識のない日本は、ペリーが乗ってきた黒船(蒸気船)に驚き、その軍事的圧力に抵抗できなかった。硬直化した日本の支配者たちは、開国を求めるペリーへの返答に一年も費やしている。

さらに、当時の欧米諸国は世界中で植民地支配を拡大していて、日本もその標的になっていた。そのため、アメリカ船の後も欧米諸国の船が次々と来日して、開国を迫るようになっていく。

幕府と各藩は対応が分かれ、長州藩や薩摩藩のように、単独で外国と戦争した藩もあったが、圧倒的な軍事力の差で敗れている。敗戦後は、海外の技術を積極的に取り入れるようになっていった。

まとめ

ここでは、日本が鎖国した目的と、鎖国が日本に与えた影響、そして日本が開国した理由について簡単に説明した。

鎖国政策は、江戸時代の日本を象徴する政策だ。良くも悪しくも、その後の日本に大きな影響を与えている。日本の近代史を学ぶためには、スタートラインとして鎖国政策時代の日本を学ぶ必要があるだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です