秦の始皇帝がモデルの漫画「キングダム」には、たくさんの個性的な将軍が登場する。実在した将軍のエピソードなどは残っているのであろうか。秦国に実在した武将の一覧や、史実に残る有名な武将について紹介していきたい。
秦国に実在した将軍一覧
まずは秦国に実在した武将の一覧を紹介する。将軍とは大将軍の次の位に位置し、軍の中心となって軍を率いる立場だ。かなりの責任と重圧を負う、有能な人物たちである。そんな秦の将軍たちはみな、とても魅力的だ。
- 李信(りしん)
- 王齮(おうき)
- 王賁(おうほん)
- 蒙恬(もうてん)
- 蒙武(もうぶ)
- 謄(とう)
- 王翦(おうせん)
- 楊端和(ようたんわ)
- 恒騎(かんき)
- 蒙驁(もうごう)
- 麃公(ひょうこう)
- 壁(へき)
- 張唐(ちょうとう)
- 摎(きょう)
- 白起(はくき)
- 王齕(おうこつ)
- 胡傷(こしょう)
- 司馬錯(しばさく)
秦国に実在した史実の名将5人
秦国に実在した将軍一覧の中から、名将の実績や人物像について史実に基づいて紹介していく。
李信(りしん)
生年 | 不詳 |
没年 | 不詳 |
まずはキングダムの主役でもある李信について紹介する。
李信は秦王政(後の始皇帝)に仕え、諸国の統一に協力した。
司馬遷が書いた「史記」白起・王翦列伝に記された人物像によると、「年が若く勇壮であった」と評されている。生年は不明であるが、紀元前229年~228年に王翦が数十万の指揮を執って、趙と対峙した時に李信は趙の太原・雲中に出征した。その時点では、年齢が若かったようである。
紀元前227年に起こった燕の太子丹による秦王政暗殺事件の報復として、李信は数千の兵の指揮を執り、226年に燕の国都を攻略した。そして君主の王喜(燕の最後の君主)と丹を敗走させたのである。李信は、丹を捕虜とした。
225年に秦王政は、楚を攻略したいと考え、李信と王翦に「どれほどの兵が必要か?」と尋ねた。李信は「20万」と答え、王翦は「60万」と答えたため王翦は耄碌してしまった物と考え、李信の案を採用し楚への侵攻を命じたのである。
総兵数20万を2つの部隊に分けた李信は、平興(現在の河南省駐馬店市平興県)を攻め、蒙恬は寝丘(現在の安徽省阜陽市臨泉県)を攻め楚に大勝した。そして更に楚の国都周辺を攻めて大勝したのである。
ここまで快進撃を続けた李信だったが、3日3晩追尾してきた楚の大将軍項燕が率いる軍勢の奇襲を受けて7人の将軍を失う大敗北を喫してしまった。(城父の戦い)
その後昌平君が配備されていた後方の楚領で、呼応するように反乱が起きる。李信は鎮圧に向かおうとしたところ、楚の奇襲を受けて壊滅してしまったのである。しかし、翌年王翦が60万の兵を率いて、楚王を捕虜にし楚を壊滅させた。
222年には王賁と共に燕の遼東を責め燕王喜を捕虜とし、燕を滅亡させ、また221年には、王賁と蒙恬と共に斉を攻めて滅ぼした。
楚戦での大失態にも関わらず、秦王政から粛清されておらず、子孫(漢の李広)が残っていることも考えると、秦王政からの信任もそれなりに篤かったと考えられるが、史記以外の資料が逸失しているため、詳しいことはわかっていない。しかし、229年~221年までの8年間を戦いに明け暮れ、大きな存在感を残したことは間違いないだろう。
王齮(おうき)
生年 | 不詳 |
没年 | 紀元前244年 |
司馬遷の史記に記載があり、実在した将軍の王齮だが、実は記述自体はとても少ない。
246年に秦王政が即位した時に将軍に任じられている。そのたった2年後の244年に、同時に将軍に任じられた同僚の蒙驁が韓を攻め、13城を取ったが同年死去した。
ただ260年の長平の戦いで活躍した王齕(おうこつ)と同一人物ではないか?という説もある。
なぜなら秦本記には王齮は登場せず、秦始皇本記で初めて登場したのとは逆に王齕は、秦本記に登場したが、秦始皇本記には記載がないからだ。
この説は南朝宋において既に論じられている。
王齕(おうこつ)
生年 | 不詳 |
没年 | 不詳 |
紀元前260年の長平の戦いでは副将(将軍は白起)として趙と戦い、これを破った。259年には白起に変わって将軍として趙の武安君を打ち皮牢を奪う。
258年には王陵が趙の邯鄲を攻めたが、戦況が思わしくなく王齕が変わって将となった。だがそれでもなかなか攻め落とすことが出来ず、昭襄王は総大将を白起に変えようとするが、固辞したため白起は自害させられてしまった。
その後も攻め落とすことは出来なかったが、趙は苦戦を続け、楚と魏に援軍の要請を行う。その援軍で戦況が苦しくなった王齕は、遂に撤退したのである。
退却した王齕は、その後秦の軍隊と合流し、魏に攻め込み大勝した。だが信陵君は、楚・魏・韓・趙・燕の5か国連合軍を結成し、秦と戦う。この連合軍に王齕は、蒙驁と共に応戦するが敗れ、退却したとある。
王齕の史実は247年に途切れて、その後登場していない。仮に王齮と同一人物とすれば、244年にこの世を去ったことになる。
白起(はくき)
生年 | 不詳 |
没年 | 紀元前257年11月 |
紀元前294年に、左庶長に任じられて韓の新城を攻めた。そして、293年には左更に進み、韓・魏・周の3国連合軍を撃破し、2魏将の公孫喜を捕え5城を落としたのである。
また292年には魏を攻めて大小合わせて61城を陥落させた。その後、278年には楚を攻めて首都の郢を落としたため、楚は陳に遷都している。
273年には魏の華陽を攻めて、韓・魏・趙の将軍を捕え、13万人を斬首したと言われている。
また趙将と戦い土卒2万人を黄河に沈めた。264年には韓の陘城を攻めて5城を落とし、5万人を斬首している。
260年の長平の戦いでは趙軍を兵糧攻めに追い込み大勝した。だがこの時の20万人余りの捕虜の兵糧が賄えず、少年兵240人を除き捕虜を生き埋めにしてしまったのである。
白起の勇壮な戦いぶりが、自らの地位を脅かすのではと警戒した宰相の范睢は、更に趙の首都の邯鄲に攻め込もうとする白起を押しとどめた。そしてわずかな条件で趙と和議を結んでしまったのである。その後王陵と王齕が趙との戦いで苦戦し、白起に白羽の矢が立ったことは王齕の項で述べた通りだ。
一連の范睢の行動に不信感を募らせた白起は病と称して出仕を断り、昭襄王自らの要請にも「趙は国力を回復したので打ち難い」と断った。更には王齕の敗戦を「だから言ったことではない」と批判した。こうして立場が悪くなっていった白起は、遂に昭襄王から自害を命じられたのである。
数々の武功を収めた大将軍白起は、こうして悲劇的な最後を遂げたのである。白起の活躍は群を抜いていて、一番の功労者ではないかと思うので残念だ。
王翦(おうせん)
生年 | 不詳 |
没年 | 不詳 |
紀元前236年に揚端和らと共に趙の鄴を攻めて、先ず9城を落とした。その後、1人で閼与などを攻める。
将軍になると功労のない者を帰らせて、兵を5分の1以下の精鋭揃いとした。そして遂にそれまで落とせなかった、鄴を落としたのである。
229年には大軍の指揮を執り、羌瘣と楊端和らと共に趙を攻めた。そして、228年には趙の邯鄲を陥落させたのである。
また、227年には辛勝とともに燕を攻めて、燕・代連合軍を破り、226年には自らの息子である王賁と共に燕の都の薊を攻め、燕の太子丹を破り薊を平定した。そして太子丹の首を得た。ただ燕の君主燕王喜は遼東に逃げのびる。この時に、王翦は老病を理由に将軍の職を辞し帰還した。
だが224年には再び秦王政から要請を受け、再び軍の将として楚を攻めたのである。楚王となっていた昌平君は戦死し、将軍の項燕は自殺した。そして222年、遂に楚の江南を平定し、221年には斉を滅亡させ、遂に秦は天下を統一した。
秦の統一に大きな功績を残した王翦は、没年は不明だが天寿を全う出来たとされている。猜疑心の強い秦王政は、どれだけ功績があっても役に立たないと判断すると、些細なことでも処刑や、一族皆殺しという残酷な処遇を科す。
そんな秦王政の性格を知りつくしていたため、一度は老病を理由に退いたのである。
秦王政から将に任ぜられほぼ全軍を与えられても、いい気にならずに秦王政への心配りを忘れなかったことが大きい。
強くて、そして賢い人だったのであろう。王翦の死後は息子の王賁が跡を継ぎ、子孫を残した。
まとめ
今回は秦国に実在した将軍一覧と主な武将を紹介した。
日本の戦国時代も同様だが天下取りという壮大なロマンは、本当に心が踊りワクワクする。一方で常に戦死のリスクが付きまとい、また将軍といえど秦王政から粛清されることもある。
まさに波乱万丈な秦の将軍たちの人生。そんなスリルに満ちた人生を駆け抜けた将軍たちはとても魅力的で、2000年以上経った現在でも生き生きとした鼓動を感じる人は多いだろう。