榎本武揚の偉大さとは?幕臣から新政府に仕えた男の経歴や功績を紹介

榎本武揚の偉大さとは?幕臣から新政府に仕えた男の経歴や功績を紹介

榎本武揚(えのもと たけあき)は、幕臣として最後まで新政府と戦った後、明治政府で実務的な大臣を歴任した人物だ。官軍と敵対しながらも、敗戦後新政府の要人となったことから低評価されているが、知識と才能は多岐にわたった優秀な人物でもある。そんな榎本武揚の偉大さを紹介していく。

榎本武揚(えのもとたけあき)とは?

榎本武揚は、伊能忠敬の元弟子であった榎本武規の次男として誕生。留学先のオランダで海洋法や国際法を学び、帰国後は徳川家に仕える幕臣となる。旧幕府軍と新政府軍が争った戊辰戦争では敗戦の将となるが、新政府軍を指揮していた黒田清隆との縁により、その後は明治政府で大臣を歴任。また、多数の団体を設立するなど、日本の発展に大きく貢献している。

経歴

榎本武揚は、江戸幕府終焉から明治維新で立場ががらりと変わった人物だ。そんな榎本武揚は、どのような経緯で明治の時代を生き抜いていったのか。榎本武揚の経歴を年代別に紹介していくので参考にして欲しい。

1836年
誕生
江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋付近)、伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規の次男として生まれる(幼名は釜次郎)。
1851年
昌平坂学問所に入学
終了したものの、成績は「丙」と最低に終わる。1855年に再入学をしているものの翌年退学。
1857年
長崎海軍伝習所へ入学
聴講生となってからの第2期生として入学し、機関学や化学を学ぶ。ここでは昌平坂学問所と違い高い評価を受けている。
1858
築地軍艦操練所教授に就任
海軍伝習所を修了し、築地軍艦操練所教授に就任。同じころ、ジョン万次郎のもとで英語を学び、大鳥圭介と知り合う。
1861年
オランダへ留学
無人島漂着などトラブルに遭いながらも1年後にオランダへ入国。砲術、蒸気機関学、化学を専攻したていたが、その優秀さから海洋法と国際法も学ぶことになる。
1867年
横浜港へ帰着
幕府から軍艦役、開陽丸乗組頭取の任を与えられる。
1868年
戊辰戦争
旧幕府軍の負傷兵、新撰組とともに、江戸で幕府所有の開陽丸をはじめとした8艦の艦隊を奪い、新撰組副長土方歳三、桑名藩主松平定敬、大鳥圭介らと旧幕臣とともに脱藩。同年 函館へ進軍し五稜郭を占領。日本初といわれる選挙によって蝦夷共和国総裁に就任し函館戦争の指揮を執る。
1869年
新政府軍に降伏
旧幕府軍は函館に追い詰められ、榎本武揚は自刃をしようとするも止められて5/18降伏。榎本武揚と戦った旧幕府軍関係者は投獄される。
1872年
開拓使に任官
敗戦によって投獄されていた榎本は、黒田清隆、福沢諭吉の助命活動と特赦により出獄。謹慎を経て、北海道鉱山検査巡回を命じられる。
1874年
駐露特命全権公使に任命
同年、日本初の海軍中将にもなっている。
1874年
樺太・千島交換条約を締結
西欧を視察し、1878年帰国。
1879年
外務大輔・議定官を兼任

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この後、榎本武揚は新政府の要職を歴任することになる。
・1880年(明治13年)海軍卿に就任
・1882年(明治15年)皇居造営事務副総裁就任
・1885年(明治18年)第一次伊藤博文内閣の逓信大臣に就任
・1888年(明治21年)黒田清隆内閣で逓信大臣・農商務大臣を兼務
・1889年(明治22年)文部大臣に就任
・1891年(明治24年)外務大臣就任
・1894年(明治27年)第2次伊藤内閣で農商務大臣に就任
1885年
徳川育英会を設立
旧幕臣の子弟に奨学金を支給するため、徳川育英会を設立。1891年には徳川育英会を母体とした育英黌を設立する。
1905年
海軍中将退役
1908年
永眠
73歳で永眠。墓所は文京区の吉祥寺に建てられている。

箱館(函館)戦争における榎本武揚の逸話

榎本武揚は、戊辰戦争の終焉となる函館戦争の敗軍の将となる。幕末から明治という日本が生まれ変わる前は武士として生きていたわけだ。その幕末、武士としての榎本武揚の逸話を紹介する。

蝦夷共和国総裁として戦争を指揮

幕府側の勝海舟と新政府側の西郷隆盛が話し合いを行い、江戸無血開城がなされた。その条件には、幕府がもつ武器などを新政府軍に明け渡すというものがあった。

しかし、抗戦派の榎本武揚は渡すはずの軍艦を奪い、旧幕臣を連れて蝦夷(現在の北海道)へ向かう。そこで抗戦するだけでなく、蝦夷を独立国家と主張。蝦夷共和国総裁として新政府軍との戦いで指揮を執ることになる。

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榎本武揚は、8艦からなる旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出している。この8艦のなかには、江戸幕府が外国勢力に対する抑止力と期待していた最新鋭の主力艦「海陽丸」が含まれている。なお、海陽丸はオランダで造成された船だ。榎本武揚が帰国の際に一緒に持ち帰っている。

日本初の国政選挙で選ばれた総裁

榎本武揚は先祖代々徳川に仕えた幕臣ではないため、合理的な考えをするところがあったようだ。また、オランダ留学の経験も影響し、幕臣でありながら封建制度には縛られていなかった。それをもっとも表しているのが、蝦夷共和国の代表を選挙によって選んだということだろう。

榎本武揚は、蝦夷共和国の代表を決める際に士官以上で選挙を行い、人事の混乱を未然に防いだのだ。なお、この選挙では軍事部門の責任者として、陸軍奉行に新撰組の生き残りを引き継いで函館に入った土方歳三が選ばれている。

諸外国に独立を表明

榎本武揚はオランダ留学で、砲術、造船術とともに国際法を学んでいる。この世界共通のルールによって、新政府軍が主張する国家とは別の蝦夷共和国という国を打ち立て、列強にも認めさせることに成功した。

しかし、旧幕臣とはいえ烏合の衆。国家を作るよりも、「薩長憎し」という思いを強くもっている者が多く含まれていた。最終的には集団をまとめきれず、新政府軍に函館に攻め込まれ、土方歳三が戦死したのを機に士気が落下。蝦夷共和国は風前の灯となってしまうのだ。

敗戦の将から新政府の要職へ

蝦夷共和国の本拠地となっていた五稜郭まで攻め込まれた榎本武揚は、総裁として降伏を受けるよりも切腹を覚悟していた。このとき死を覚悟した榎本武揚は、大切にしていた「万国海律全書」を敵将の黒田清隆へ託すのだが、この行動が後の榎本武揚に大きく影響を与えることになる。

榎本武揚は周りの意見によって自決をとどまり新政府軍に降伏。収監された榎本武揚を処分しようとする長州系の人たちに対し、頭を丸めて助命嘆願することになる。黒田清隆、福沢諭吉らも榎本武揚の助命嘆願に加わり、その甲斐あって榎本武揚は2年半後に出獄。その後は明治政府の要職を歴任し、今日の日本の発展に大きく貢献することになるのだ。

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オランダ語で書かれた最新の国際法が記されたその書物には、榎本武揚の注釈が数多く書かれていた。これをみた黒田清隆は、榎本武揚が新たな国造りに必要な人物と考える。またこの「万国海律全書」を黒田清隆から翻訳を依頼された福沢諭吉は、「これを正しく訳せるのはオランダで学んだ榎本武揚以外にはいない」とし、助命嘆願に加わっている。死を覚悟した際に黒田清隆へ送った「万国海律全書」が榎本武揚の命を救ったのだ。

榎本武揚の功績

榎本武揚は敗軍の将として収監されたあと、政治家、外交官として明治政府で仕事をすることになる。その代表的な功績を紹介していく。

樺太・千島交換条約

榎本武揚の外交能力がもっとも発揮されたのが、樺太・千島交換条約締結だろう。1855年(安政元年)に日露和親条約で国境は決められていたが、1856年に起こったクリミア戦争終結により、ロシアの樺太開発が本格化する。幕府は函館奉行に交渉させるがまとまらず、日本人とロシア人にアイヌ民族も加わり不穏な状況が続くことになる。

明治に入り、この状況を改善したのが、全権大使としてサンクトペテルブルクに向かった榎本武揚だ。オランダで国際法と海洋法を学んでいた榎本武揚は、現実的な解決策を提示しこれをまとめる。

その内容は、日本が樺太での権益を放棄する代わりに、得撫島(うるっぷとう)以北をロシアが壌土するというものだ。そのほかにも漁業権や両国資産の買い取りなど細部までつめて樺太・千島条約が締結された。長くまとまらなかった問題を、日本にはまだ少なかった国際人、榎本武揚がまとめあげたのだ。

育英黌農業科など多数の団体を設立

榎本武揚は逓信大臣の際に、逓信大臣の際に郵便番号の「〒」を決めたという逸話をもっている。団体の設立にも力を注いでおり、地理学を研究する東京地学協会、電気学術の調査と研究を行う電気学会などは榎本武揚が設立に携わっている。

また、榎本武揚は旧幕臣の子弟に奨学金を与えるために徳川育英会を創設。後に独立した徳川育英会育英黌農業科は、現在の東京農業大学のルーツとなっている。

まとめ

榎本武揚は、「明治最良の官僚」といわれるほど、実務に長けた政治家だった。ただその一方で、幕臣でありながら明治新政府に仕えたことから「帰化族の親玉」と裏切り者の代表のような呼ばれ方もされていた。

たしかに、敵対していた薩摩、長州のもとで働くことは、旧幕臣としては見栄えは良くないだろう。しかし、誰よりもそのことを辛く感じていたのは榎本武揚自身だったのではないだろうか。そんな上辺のみっともなさよりも、世の中をよくするために自分の感情を捨てて働いたことが、榎本武揚の経歴から見てとれる。私心を捨てる…政治家としてはまっとうな生き方をした人物だったといえるだろう。

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