「タタールのくびき」とは?モンゴル人によるロシア支配時代を解説

「タタールのくびき」とは?モンゴル人によるロシア支配時代を解説

タタールのくびきは、13世紀前半に始まったタタール人による、ルーシへの侵攻とそれに伴う支配を指している。この期間、ルーシ人はタタール人による屈辱的な支配時代が続いたとしているが、実態は異なるとの見方が強い。今回は、タタールくびきについて詳しく解説していく。

タタールのくびきとは?わかりやすく解説

タタールのくびきとは、13世紀全範囲に起こったタタール(モンゴル)による、ルーシ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)への侵攻と、それに伴う支配時代のことである。

ルーシの人々は、東方からやってくるモンゴル系民族を一様に、タタールと呼んでいた。また、くびきとは、家畜を拘束する際に使う棒状の道具を指している。

つまり、タタールのくびきとは「ルーシの人々がモンゴル人に家畜のように拘束されていた時代」のことである。

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ちなみに、タタール人によるルーシ人の支配は、モンゴルのバトゥがキエフ公国を滅ぼした1240年から、モスクワ大公国のイヴァン3世がキプチャク=ハン国を撃退し、自立した1480年まで続いたとされている。

「タタールのくびき」と「タタールの平和」の違い

まず前述したように「タタールのくびき」は、ルーシ人から見たタタール人による支配のことだが、「タタールの平和」は、タール人の支配によりユーラシア大陸全土に強制的にもたらされた安定を意味している。

ユーラシア大陸は、13世紀から14世紀にかけてモンゴル帝国の覇権により、平和と安定がもたらされた。

ユーラシア大陸のほぼ全域をモンゴルが統一したことにより、陸路が活発となって様々な人が自由に行きかい、貿易が発達したのである。

「タタールの平和」の元々の語源は、ローマの支配により、安定と平和がもたらされた「ローマの平和」からきている。そのため、モンゴルの統一によりもたらされたユーラシア大陸全般の平和を「タタールの平和」と呼び、モンゴルに支配されたルーシ人から見た苦渋の期間を「タタールのくびき」と呼ぶのだ。

つまり、タタール平和とタタールのくびきは、視点が異なるだけで、同じ事柄を指す言葉ということだ。

モンゴル人によるロシア支配の経緯

実はロシアは、タタールのくびき以前からモンゴルによる侵攻を受けていた。ロシアを支配していたキエフ大公国は11世紀頃から分裂を始め、ムスチスラフ1世が一旦統一をするものの、1132年に没すると分裂の傾向が強まり首都キエフも破壊されてしまった。

そんなロシアの内情に乗じて、「東方から未知なる民が押し寄せた」とロシアの年代記作成者は記したのである。

モンゴルのジェベとスブタイの両将軍はチンギス・カンの命を受けて、中央アジアを支配していたホラズム・シャー朝のムハンマドの追討に乗り出した。

ムハンマドは1220年に客死していたが、両将軍は進撃を続けカフカース北麓の遊牧民を破り、キプチャク草原に進行したのである。キプチャク草原のポロヴェツ族は、北西方面に避難を始めロシアに援軍を求めた。

ポロヴェツ族の長である、コチャン・カンの娘を妻にしていた、ガーリチ公ムスチスラフ

はこの求めに応じ、ポロヴェツ・ロシア連合軍を組織し、カルカ川の湖畔で、モンゴル軍を迎え撃った。

連合軍は大軍であり、その奢りもあって作戦で偽りの退避を仕掛けたモンゴル軍に安易に攻撃を仕掛け、モンゴル軍に包囲されて大敗を喫してしまったのが、1223年のカルカ湖畔の戦いであり、モンゴルによるロシア侵攻の端緒である。

モンゴル帝国第2代カアン・オゴディの命令を受けたバトゥは、征西軍の総司令官となり出征した。

35,000人という弓騎兵の大軍であるモンゴル西征軍は、1236年にはヴォルガ・ブルガールへの侵略を開始した。

そしてバトゥによる東ヨーロッパへの大侵攻がきっかけとなり、キプチャクを征服し、モンゴルによるロシアへの侵攻も本格化していったのである。

バトゥによるロシア侵攻

キプチャク征服後の1237年11月に、バトゥはウラジーミル・スーズダリ大公国のユーリー2世の宮廷に使者を出し、モンゴルに服従するよう求めた。その後プロンスク公国を陥落し、リャザン公国への攻城戦を開始しわずか6日で陥落し、完全に破壊されたのである。

この知らせを受けたユーリー2世は、息子たちをモンゴル軍征伐に向かわせたが、大敗を喫してしまう。

1238年にはウラジーミル・スーズダリ大公国への攻城戦をしかけ、3日で陥落させ、首都ウラジーミルは完全に破壊された。

バトゥはその後、軍を小さく分け、ロシア北部の14都市を破壊し、略奪した。その中にあって最もモンゴルを苦しめたのは、コゼリクスという都市で、7週間に渡り激しく抵抗し、モンゴル軍は4000人の犠牲者を出したのである。

激しい侵攻にロシアの都市の中で破壊を免れたのは、モンゴルに服従を誓ったスモレンスクと言う大都市の他は、2都市のみであった。

1239年にバトゥ率いるモンゴル軍は、再びロシア南部へと進み、チェルニーヒウ公国の首都チェルニーヒウとペレヤースラウ公国の首都ペレヤースラウを陥落させ、略奪したのである。

そしてロシアの有力国家であった両国を滅ぼした。その後ロシア南西部に進行したモンゴル軍は、1940年のキエフの戦いで、キエフ大公国を破壊し、完全に滅亡させてしまったのである。

キャプチャック=ハン国による支配

キャプチャク=ハン国とは、キプチャク草原を支配したチンギス=カンの長男のジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権のことである。

ただキプチャク=ハン国は日本では広く呼称されているが、資料上では確認できず、ペルシャ語では、ジョチ・ウルスと呼ばれていた。

キプチャク=ハン国によるロシア支配は、間接統治で決まった税金を納めることや、戦時に従軍することを義務付けたのみである。

モスクワ大公国の成立と支配からの脱却

モンゴル侵入によってロシアの諸国が崩壊した後の空白地帯であったトヴェリやモスクワなどでは、そこを本拠とした勢力が台頭し、やがてノヴゴロドを圧迫するようになった。

それがトヴェリ公国とモスクワ公国となる。両者は対立したが、1327年にトヴェリ公国アレクサンドルがキャプチャク=ハン国に反逆すると、モスクワ公国はモンゴルの側について、トヴェリ公国を破壊した。

その後力を強大化させたモスクワ公国は、ウラジーミル大公を独占する事が多くなり、モスクワ大公と呼ばれるようになったのである。

モスクワ大公はロシアを代表して、キプチャク=ハン国に意向を伝える立場になり、反対にキプチャク=ハン国の意向を全ロシアに伝え、ますます力を強めていった。モンゴルの遊牧民もモスクワ大公には一定の敬意を払ったため、比較的平和が保たれ、貴族やその部下たちはモスクワに移り住んだのである。

また、モスクワ公国は経済にも力を入れて、財力も大きくなっていったのである。

一方のキプチャク=ハン国は、多年に渡る内紛で統一が損なわれ、モスクワ公国の発展を止める事が出来なくなっていった。そして1375年にトヴェリ公国は、モスクワ公国の優位を認め、和約が結ばれロシアは結束してモンゴルに立ち向かうという方向性が定まった。

1380年モスクワ大公国軍は、キプチャク=ハン国系政権(ママイ・オルダ)およびリトアニアなどの連合軍を破り、ついに「タタールのくびき」からの脱却の第一歩を踏み出した。この戦闘が世にいう「クリコヴォの戦い」である。

1480年のイヴァン3世がアフマド・ハンの軍勢をウグラ川から撤退させて以後、モスクワ公国は、キプチャク=ハン国への朝貢をやめ、ついにモンゴルの支配から脱却した。

タタールのくびきの実態

タタールのくびきは、ロシア側から見るとモンゴルによる圧政に苦しめられた期間とされているが、実際にはロシア領主による間接統治だった。確かに、モンゴルはロシアに朝貢と従軍を強いてはいたが、家畜扱いと表現されるほど実態は酷いものではなかったのである。

モンゴルによるロシア侵攻は、当初こそ大規模な殺戮の可能性はあったが、モンゴルは利益が得られればそれで良く、民族を根絶やしにしたり、奴隷にして全て搾取したりするようなものではなかったのである。つまり、文化や宗教に至るまで、抑圧し搾取していた訳ではなかったのだ。

そしてモンゴルとロシアの支配階級の間では、人的・文化的交流も盛んに行われ、モンゴル出自のロシア人の姓は、代表的なロシア人の姓である。同じ事柄でも、違う立場から見ると全く風景が異なる事はよくある事だが、客観的にみれば、タタールのくびきとは酷い圧政とまでは言えないだろう。

タタールのくびきの影響

多くの歴史家がタタールのくびきの影響により、ロシアに西洋と東洋の狭間の性格が形づくられる要因となったと指摘している。そのためロシア側から見ると、タタールのくびきにより西ヨーロッパの発展から取り残され、遅れた国とみなされる原因になってしまったと考えられた。

ただし当時のモスクワ公国では、タタール語の流行が見られたり、タタール人への愛好が見られたりと、交流が盛んに行われていたのである。そのため当時のロシアの人たちが全て、タタールのくびきの影響を悪しきものと感じていたとは言えないだろう。

また、法においては、キエフ・ルーシ時代には奴隷にしか行われていなかった死刑が、広く行われるようになったという影響がある。しかし、同時期の西ヨーロッパの処罰はさらに過酷な物であり、モンゴルが特段残酷な刑を用いていたということではない。

良し悪しは別として、ロシアには他のヨーロッパ諸国とは異なる習慣が、タタールのくびきの影響によりもたらされたことは間違いないだろう。

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ちなみに、社会制度においては政治的忠誠と軍事的奉公を条件として、「本領安堵」する制度をもたらしている。

まとめ

250年間に及ぶモンゴルの支配は、ロシアに東洋的な影響を与えた。支配されたロシア側から見れば、不本意だったかもしれないが、別の側面から見れば悪いことばかりではなかったのだ。

歴史は支配した側、支配された側の両面から客観的に見ることで、全く見解が異なる点が面白いと言えるだろう。タタールのくびきは、まさにその最たる例ではないだろうか。

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