トロイア文明とは、古代エーゲ海周辺に生じたエーゲ文明の一つである。本記事ではトロイア文明を中心にクレタ文明、ミケーネ文明について解説する。
トロイア文明とは?わかりやすく解説
トロイア文明とは、前2600年頃から栄え、前1200年頃のトロイア戦争によって滅亡した文明である。
ホメロスの叙事詩にある神話であると考えられていたが、1870年にシュリーマンがヒッサリクの丘で遺跡を発見し、その後の発掘調査でトロイアの遺跡であるとされたのだった。
トロイア遺跡は現在のトルコ北西部ダーダネルス海峡の南、アナトリア半島(小アジア半島)の北西端にあるエーゲ海沿岸のヒッサリクの丘に位置する。このことから、トロイア文明は海上交易によって栄えたと推測されている。
また、オリエントの文化の影響も強く受け、強大な王権を持った東方的な専制政治による統治が行われていたと考えられる。
ホメロスの叙事詩「イリアス」に描かれたトロイア戦争の10年間と、「オデュッセイア」に描かれたトロイア戦争後のオデュッセウスの物語は神話的要素が多いことから、歴史家たちの間では事実とみなされていなかった。
しかしシュリーマンは幼い頃に読んだ物語が忘れられず、トロイアの遺跡発掘の夢を叶えたと言われている。シュリーマンはギリシア本土においてもミケーネ遺跡の発掘を行っている。
トロイア遺跡は前3000年頃から前350年頃まで、9層に積み重なっており、シュリーマンの発見したプリアモスの財宝は、トロイア戦争より1000年以上も前のものだと判明している。しかしシュリーマンの発掘によって遺構が大きく損なわれ、トロイアの遺跡がイリアスに描かれているものかどうか考証できなくなっている。
トロイア文明以外のエーゲ文明
エーゲ海周辺には、トロイア文明の他にクレタ文明(ミノア文明)、ミケーネ文明が生まれた。いずれもオリエントの影響を受けた青銅器文明である。ここではクレタ文明、ミケーネ文明について説明しよう。
クレタ文明
クレタ文明はエーゲ海最南端の島、クレタ島で前2000年頃から前1400年頃に繁栄した文明である。1900年にアーサー・エヴァンズによってクノッソス遺跡が発見された。
クノッソス宮殿はミノタウロスの迷宮として有名だが、クノッソス遺跡から迷宮は発見されていない。
クレタ文明はエジプト文明の影響を強く受けていた。美術工芸品や装身具、壺などがエジプトから持ち込まれており、それを模倣し独自のものを創作していたようだ。そのため、金や貴石を用いた美術工芸品や、金製の宝飾品などが出土している。
王宮を城壁で囲んでいないことから、平和を好む民族であったと考えられる。また船を使った周辺地域(アナトリアやシリアなど)との交流も活発であった。壁画にはタコやイルカなど海洋生物や、牛跳びの様子が描かれている。
クレタ文明では、3種類の文字が使われていた。それぞれ「絵文字」、「線文字A」、「線文字B」と呼ばれている。線文字Bは解読され、ギリシア語を書き記したものであったことがわかっているが、絵文字と線文字Aについては、未解読である。
前1450年頃、クレタ島の北にあるテラ島で大規模な噴火が発生した影響でクレタ文明は急速に衰えており、前1400年頃からミケーネ(アカイア人)の侵入を受けてクレタ文明は崩壊していった。
クレタ文明は伝説のクレタ王「ミノス」からミノア文明、ミノス文明とも呼ばれるぞ。
ミケーネ文明
ミケーネ文明は、1876年シュリーマンによってミケーネ遺跡が発見され、存在が明らかになった。
ミケーネ文明は、ギリシア北部からやってきたアカイア人によって前1600年頃から形成されたと考えられている。ペロポネソス半島北東部、アルゴス平野のミケーネを中心に多くの都市国家が建設された。
ミケーネ遺跡は巨大な切石を使っており、城壁、獅子門、円形墳墓、王室、地下貯水槽などが発掘された。巨大な王の墓が作られており、そこから陶器、武器、青銅器、王の仮面など黄金を使ったものが数多く出土した。剣や甲冑の製作にも秀でており、強大で攻撃的な都市国家だったと推測されている。
ミケーネ文明は規模の小さいいくつかの王国より成立しており、それぞれの国家に王と王に隷属する農民がいた。王は役人を使って、支配している農民から貢物を持ってこさせるというやり方で税を徴収していた。これを「貢納王政」と言う。
ミケーネはトロイア戦争後、突如として滅亡してしまった。この頃ほとんどの宮殿が燃え落ちている。内乱や海の民の侵攻、天変地異、ドーリア人の侵攻などが滅亡の原因として考えられている。
トロイア文明とクレタ文明の違い
クレタ文明とトロイア文明について、比較して違いを検討する。
クレタ文明 | トロイア文明 | |
全盛期 | 前2000年頃~前1400年頃 | 前2600年頃~前1200年頃 |
政治 | 王による東方的専制政治 | 強大な王権による東方的専制政治 |
発見者 | エヴァンズ | シュリーマン |
発見された年 | 1900年 | 1870年 |
民族 | 地中海人種と小アジア系人種のハーフと考えられている。 | 不明 |
文字 | 絵文字線文字A線文字B | 不明 |
中心地 | クレタ島 クノッソス | アナトリア半島(小アジア半島)西部 トロイア |
遺跡の特徴 | 城壁がなく、開放的である。広大な宮殿 | 堅固な城壁 雄大な楼門 |
出土品 | 海の生物が描かれた壺など | 黄金の冠や首輪などの財宝など |
滅亡の原因 | ミケーネの侵攻 | ミケーネとのトロイア戦争 |
クレタ文明とトロイア文明の大きな違いとして挙げられるのが、出土した遺跡の特徴である。クレタ文明は外敵に備えるような城壁がなく、開放的で広大な宮殿であった。それに比べてトロイア文明では、堅固な城壁が作られ雄大な楼門があったことから、クレタ文明は平和的で対立するような集団が近くに存在しなかったと考えられる。
なお、3つのエーゲ文明において、クレタ遺跡には外敵に備えるような城壁がなかったことが大きな特徴である。クレタ人が平和を好む性格であったとされている。
トロイア文明とミケーネ文明の違い
トロイア文明とミケーネ文明についても、比較して違いを検討する。
ミケーネ文明 | トロイア文明 | |
全盛期 | 前1600年頃~前1200年頃 | 前2600年頃~前1200年頃 |
政治 | 王は専制的な権力を持ち、周辺から税を納めさせていた。貢納王政 | 強大な王権による東方的専制政治 |
発見者 | シュリーマン | シュリーマン |
発見された年 | 1876年 | 1870年 |
民族 | ギリシア民族系アカイア人 | 不明 |
文字 | 線文字B | 不明 |
中心地 | ペロポネソス半島北東部ミケーネ ティリンス | アナトリア半島(小アジア半島)西部トロイア |
遺跡の特徴 | 巨大は切石巨大な王墓長大な城壁 | 堅固な城壁 雄大な楼門 |
出土品 | 黄金のマスクなど純金製の武器、装身具など | 黄金の冠や財宝 |
滅亡の原因 | 内乱、海の民の侵攻、ドーリア人の侵攻などが滅亡の原因ではないかと考えられている。 | ミケーネとのトロイア戦争 |
トロイア文明は解明されていないことが多いが、考えられるミケーネ文明の大きな違いのひとつに政治形態が挙げられる。ミケーネ文明はいくつかの小国から成立しており、貢納王政は権力を持つ王が支配下の村落に役人を派遣して農民に貢納させていたことである。
このようなオリエント的小専制王国が、後のギリシアにおけるポリスの下地となったのではないかと注目されている。
3つの文明はどれもエーゲ海周辺に位置するが、地理や農業事情においては大きく異なる。アナトリア半島はよく肥えた土地があり、大メンデレス河などいくつもの川が流れているため、作物がよく実る。それに比べてギリシア側では山場が多く、石灰岩質で穀物の栽培は難しい。
そのためギリシア側の人々は海上交易が必須であり、黒海を目的としていたために文明以前から利害の対立があったのではないかと推測されている。
トロイア文明の滅亡理由
ホメロスの英雄叙事詩「イリアス」によれば、トロイア文明はアカイア人による侵略によって滅ぼされたとある。しかしその証拠はない。
ミケーネ文明において栄えた都市が「イリアス」に登場することから、トロイアの滅亡は、アカイア人が入植する前のミュケナイ人によるものか、トラキアやプリギュアなど他民族によるものと考えられている。
ホメロスの「イリアス」「オデュッセイア」「キュプリア」などにトロイア戦争について叙述されている。
トロイア戦争の発端は、女神テティスとギリシア王ぺーレウスの披露宴に招待されなかった「嫉妬と争いの女神エリス」が、「最も美しい女神へ」と書かれた黄金のリンゴを宴会場へ投げ込んだことだった。
黄金のリンゴをめぐってヘーラー、アテナ、アフロディーテの3人の女神が争いをはじめ、困ったゼウスは少年パリスに美の判定を委ねたのだった。
3人の女神たちは、パリスへ交換条件を出した。ヘーラーは世界の支配者、アテナは戦いでの勝利、アフロディーテは美女を手に入れることだった。
パリスはアフロディーテを選び、美女を手に入れたが、その美女は人妻だったのだ。
妻のヘレネーを奪われたスパルタ王メネラーオスは、妻を取り返すために兄のミケーネ王アガメムノーンに協力を頼み、軍を率いてトロイアに攻め込んだのがトロイア戦争の始まりである。
トロイア戦争は10年にも及んでいた。
オデュッセウスが考えたトロイアを破る作戦が、有名な「トロイアの木馬」である。
ギリシア軍は浜辺に大きな木馬を残して海岸から引き上げたように見せかけた。木馬にはギリシア兵が100人以上隠れていたのだ。トロイア兵は、その木馬を戦利品として城内に持ち帰り、勝利の宴をはじめた。トロイア兵が眠り込んだのを見て木馬から出てきたギリシア兵は、内側から城門を開き、外の兵と合流してトロイアを滅亡へ追い込んだのである。
まとめ
1870年にシュリーマンがトロイア文明を発見してから、エーゲ海におけるクレタ文明、ミケーネ文明の存在が確認された。まだ解明されていないことも多く、神話の領域を出ないとも言われている。しかし神話には何かしらの真実が隠されていると言えるだろう。