津田梅子は、女子高等教育の先駆者と言われる偉人。明治時代に「岩倉使節団」で最初の女子留学生として活躍したことは有名だ。また2024年の新紙幣では、渋沢栄一、北郷柴三郎とともに紙幣の顔に選ばれている。そんな津田梅子の人物像を詳しくまとめた。
津田梅子(つだうめこ)とは
津田梅子は、1900年に女子英学塾(現在の津田塾大学)を創立した人物だ。津田塾大学は、女性が高い専門性と広い教養を身に付けるための高等教育機関として誕生した。明治時代の保守的な日本で、さまざまな障害を目の前にしながらも、勇気と情熱と志で成し遂げた、まさに日本における女子高等教育の先駆者という存在なのだ。
津田梅子は、女性の地位向上こそ日本の発展につながると信じ、男性と協同して対等に力を発揮できる女性の育成を目指し、女性の高等教育に生涯を捧げた。女子高等教育に全力を尽くした津田梅子は、その後の女性の社会参画に大きく貢献している。
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- 東洋の女性は、地位の高い者はおもちゃ、地位の低い者は召使いにすぎない
- 環境より学ぶ意志があればいい
- 何かを始めることはやさしいが、それを継続することは難しい。成功させることはなお難しい
- 高い志と熱意を持ち、少数だけでなく、より多くの人々との共感を持てれば、どんなに弱い者でも事を成し遂げることができるでしょう
- 人生の導き手である良い書物は、その書物のなかで語る偉人たちの言葉は、求めさえすれば皆さんのものとなることでしょう
経歴(年表)
女子高等教育に熱き思いを傾けた津田梅子の、その生涯や偉業を年表でまとめたので、参考にして欲しい。
津田梅子は何をした人なの?
新たなお札の肖像に選ばれた津田梅子は、現在の教育に影響を与えた多くの功績を残している。そんな津田梅子の功績を一部紹介する。
岩倉使節団に最年少で随伴
津田梅子は6才のときに、岩倉使節団の一員として親元を離れ渡米する。6才といえば現代なら小学校1年生だ。船が出る横浜港では、鬼のような母親ではないかなどど囁かれたりもしたようだ。当時のワシントン弁務公使の森有礼も、梅子の幼さに困惑したと伝えられている。
実際に梅子を岩倉使節団に入れようと考えたのは父親の仙であり、仙自身も、1867年に幕府の遣米使節の通訳として渡米し、アメリカの男女平等の様子を目の当たりにした経験あった。自身の経験から、娘の梅子の渡米を後押しすることになったとされている。
渡米後11年間アメリカの家庭で育った梅子は、帰国後日本で最初の帰国子女となっている。
帰国後は女子高等教育に力を注ぐ
津田梅子は、2度目の留学中にモリスらアメリカ人女性の支援を得て、後進の女性リーダーを育成するための「日本女性米国奨学金」という奨学金制度を創設。当時8000ドルを集めれば、その利子で同胞の女性を4年に一人、自らが学んだブリンマー大学に派遣できることを計画し、1970年代まで25人の女性たちの留学への道を切り拓いた。
その中には津田塾大学初代学長の星野あいや、恵泉女学園創立者の河井道のほか、この制度で留学した多くが女子教育の指導者となっている。
現在の津田塾大学を創設
1900年、津田梅子35歳の時、私立女子高等教育における先駆的機関のひとつである、女子英学塾(現在の津田塾大学)を創設。梅子は女子英学塾を開校式での挨拶で、「オールラウンドウィメン(all round women)」という言葉を残している。
オールラウンドウィメンは、当時の女子学生に贈られた言葉だが、今や全ての子どもたちに向けられた言葉と言えるだろう。苦労と困惑を繰り返しながら、女性の地位向上のために奮闘した梅子ら先人の努力の甲斐あって、現代には男女が対等に力を発揮できる社会が実現されている。
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- 精神性を高めること
- 個性にあった教育であること
- 広い視野を持つこと
津田梅子の逸話
女子高等教育の先駆者とされる津田梅子だが、性格は豪快かつ頑固だったようだ。津田梅子の性格がわかるエピソードをいくつか紹介する。
帰国当初は日本語を忘れていた
6歳で留学し、アメリカで英語に囲まれて育った梅子だが、ワシントン郊外の女学校を卒業し、17歳で帰国命令を受けるまでの間、日本語には触れずにいた。そのため日本語をすっかり忘れ、帰国したときには何と自分の母親とも日本語で会話が成り立たない状態になっていたようだ。
また、日本語も忘れて帰国した梅子にとって、当時の日本の姿は驚きの連続だった。父の母への扱いも劣悪なものに見え、女性の地位の低さを嘆き憤り、女性の地位を高めなければという思いが募ったとされている。
頑固な性格で生涯独身を貫く
18歳の頃帰国した梅子には、いくつかの縁談が舞い込んでいた。当時の日本は14歳から16歳で結婚するのが当たり前で、それを過ぎると「売れ残り」と呼ばれていた。梅子はそんな日本のあり方に嫌気がさし、20歳の時には生涯独身でいる事を誓い、女子教育に人生の全てを捧げることになる。
それは当時としては非常に珍しい事だったが、強い信念に対する頑固さを持ち合わせていたため、生涯独身という自分の意志を貫くことができたのではないだろうか。
ヘレン・ケラー、ナイチンゲールと対談
津田梅子は34歳の時に日本女性の代表として、アメリカの万国夫人クラブ連合大会でスピーチを行っている。そのスピーチが素晴らしく、ヘレン・ケラーが訪問し対面を果たした上に、イギリスに招かれナイチンゲールやヨーク大主教とも会見をしている。
ヘレン・ケラーとの面会では、その障害をものともしない教育への情熱に感銘を受けたようだ。ナイチンゲールは、「白衣の天使」というイメージと違い、実はデータ重視の強気の性格の人物だった。梅子はナイチンゲールと面会し、発奮し意気投合するものがあったようで、彼女から受け取ったスミレは、押し花にして持ち帰り、現在も残っている。
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まとめ
明治時代、女の道は結婚のみという考えが強固なものだった。そんな時代に幼い頃から留学し勉学一筋で日本初の帰国子女となった津田梅子。その生涯は、困惑を繰り返しながら、日本の女性の高等教育と地位向上のために奮闘した人生だったのではないだろうか。
結婚という女性の一般的生き方に抗い、生涯独身を貫いて、男性と共同して対等に力を発揮できる女性の育成に情熱を注いだ彼女の生き様は、現代のグローバルな社会を生きる私たちにとっても大きな指針となっているだろう。