薔薇戦争とは、イングランドのランカスター家とヨーク家が王位継承をめぐり起こった内乱だ。プランタジネット朝の傍流である両家の争いは、曲折を経て結果的にランカスター家の分家であるヘンリー・テューダーが勝者となる。この封建貴族間の内乱である薔薇戦争をくわしく解説していく。
薔薇戦争(バラ戦争)とは?わかりやすく解説
薔薇戦争とは、百年戦争終結後にイングランドで起こった王位継承をめぐる内乱だ。先のイングランド王朝、プランタジネット朝の傍流であるランカスター家とヨーク家の権力争いと言えばわかりやすいだろう。
この内乱は、ヨーク公リチャードがヘンリー6世(ランカスター朝最後の王)に対して反乱を起こしたことから始まり、1455年から1487年のおよそ30年もの間続くことになる。
最終的には、ランカスター家の分家だったリッチモンド伯ヘンリー・テューダーがヘンリー7世として即位し、テューダー朝が成立するわけだが、戦いが終結するまでに多くの血が流れた。
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薔薇戦争と呼ばれる由来
薔薇戦争と呼ばれるのは、ランカスター家が赤バラ、ヨーク家が白バラを紋章にしていたことに由来している。この呼称は当時から使われていたわけではなく、19世紀以降広く使われるようになった。
なお、薔薇戦争で王位を継いだヘンリー7世はエリザベス・ヨークと結婚することになる。その結果、ランカスター家とヨーク家は統合され、新たに成立したテューダー朝では白バラの周りに赤のバラを使った「テューダー・ローズ」を紋章としている。
薔薇戦争の背景
薔薇戦争の背景には、プランタジネット朝から続く王族同士の王位継承をめぐる根深い確執がある。
百年戦争を開始したエドワード3世には、王位継承権1位のエドワード黒太子のほかに成人した4人の息子がいたわけだが、それぞれ「クラレンス」「ランカスター」「ヨーク」「グロスター」という4つの公爵家を創設させた。
- クラレンス家:クラレンス公ライオネル
- ランカスター家:ランカスター公ジョン
- ヨーク家:ヨーク公エドムンド
- グロスター家:グロスター公トマス
なお、エドワード黒太子の次に王位継承権を持つのはクラレンス公ライオネルとなる。この関係性を理解しておくと薔薇戦争の背景がわかりやすくなるので参考にしてほしい。
ランカスター家による王位簒奪
ことの起こりは百年戦争中、リチャード2世から従兄弟であるランカスター家のヘンリー4世が王位を簒奪したことから始まったとされる。
1377年にエドワード3世が亡くなり、その前年には継承権をもつエドワード黒太子が死亡したことで黒太子の息子であるリチャード2世が10歳で即位となる。
しかし、リチャード2世はまだ幼かったため、王としての政務は叔父達が握っており、しばしば己の利益のために王家の金を使用していた。
また、1381年には、ワットタイラーの乱が起こるなど民衆による反乱も頻発していたのだ。この反乱の原因はランカスター公らが課税強化したものと考えられ、リチャード2世は叔父達に強い不信感を持ちはじめる。
リチャード2世が成人後は叔父達を排除し、母方の親族や新興の出身者を取り立てて側近政治を行うものの、議会からの批判や有力貴族からの反発が高まり、叔父たちや有力貴族層との確執は深まっていた。
1399年にはランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの息子ヘンリー・ボリングブルックが起こした反乱を一度は鎮圧するが、再度の反乱によりリチャード2世は廃位・幽閉されてしまう。
こうしてプランタジネット朝を倒したヘンリー・ボリングブルックは、自らヘンリー4世として即位し、ランカスター朝が成立したのだ。
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ヘンリー6世の精神障害とヨーク家の反発
ヘンリー4世によってランカスター朝が成立後、その息子ヘンリー5世が王位を継承するが、百年戦争の真っ只中に幼い息子ヘンリー6世を残して急死してしまう。
その後幼くして王位を継いだヘンリー6世だが、百年戦争での戦況の悪化に悩まされ、終結後には精神に異常が現れる。この時ヘンリー6世の症状はひどく、物事を判断することができないばかりか、自分の息子(エドワード王子)も認識できなかったと言われている。
そんな精神障害を患った夫のヘンリー6世に代わり、実権を握っていたのが王妃マーガレットだ。マーガレットはフランス出身の貴族(フランス王妃の姪)であり、対フランスの講和派だった。
この状況に対して、対フランス主戦派で、かねてよりランカスター家の王位に不満を抱いていたヨーク家のヨーク公リチャードが反発することになる。
ヨーク公リチャードは、「イングランドは元々女系継承があり、正統な継承権はエドワード3世の次男クラレンス公ライオネルの娘の子であるモーティマ家である。その母方のモーティマ家を相続した自分こそが正当な王位継承権を持っている。」と主張したのだ。
こうして、薔薇戦争の幕が開かれることになる。
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薔薇戦争の経緯
薔薇戦争では、ランカスター家とヨーク家の熾烈を極めた争いがおよそ30年行われたわけだが、大きく3つの内乱にわけられる。ここでは薔薇戦争の時系列を第一次内乱、第二次内乱、第三次内乱の順に紹介していくので、参考にしてほしい。
【第一次内乱】ヨーク朝の成立
第一次内乱では、ヨーク家のヨーク公リチャードが1455年の「セント・オールーバンズの戦い」にて、ランカスター派のサマセット公らの主要な人物を討ち取ることに成功する。
また、1460年のノーサンプトンの戦いではランカスター派を破り勢力を増したヨーク家であったが、1461年にはヨーク公リチャードや次男のラトランド伯、ソールズベリー伯らがランカスター派に命を奪われてしまう。
その後、ヨーク公リチャードの子であるヨーク公エドワードは、1461年のタウトンの戦いでランカスター派を破ることになる。この時ヘンリー6世は王妃を連れてスコットランドへ逃亡するが1465年に捕らえられ、ヘンリー6世はロンドン塔へと幽閉される。
1468年、ランカスター派の最後の拠点であったウェールズ地方のハーレフ城が降伏。この第一次内乱はヨーク派の勝利で収束となった。勝利を収めたヨーク公エドワードは、ヘンリー6世を廃位させ、自らエドワード4世として即位。こうしてヨーク朝を樹立したのである。
【第二次内乱】新国王エドワード4世vs前王妃マーガレットの戦い
エドワード4世によってヨーク朝が開かれたが、その後、エドワード4世の登極(とうきょく・即位のこと)に功のあったソールズベリー伯の息子のウォリック伯と関係が悪くなってしまう。
時を同じくして、イングランドを追われてフランスに亡命していたマーガレットは、ルイ11世の仲介でウォリック伯を味方に付けることに成功。1470年10月、マーガレットに忠誠を誓ったウォリック伯は、エドワード4世の弟であるクラレンス公ジョージと盟約を結び、反旗を翻してロンドンを占拠し、幽閉されていたヘンリー6世を復位させる。
マーガレット陣営に敗北したエドワード4世は、ブルゴーニュへの亡命を余儀なくされるが、1471年には勢力を持ち直し、ヘンリー6世を再び捕らえることに成功。その後、バーネットの戦いでウォリック伯に勝利し復位を果たすことになる。なお、この戦いでウォリック伯は戦死している。
マーガレットとエドワード王子は、亡命先のフランスで国王ルイ11世の支援を受けることにより、バーネットの戦いの数日前には再び渡英を果たすことになるが、同年のテュークスベリーの戦いで敗北し、捕虜となる。
この結果、マーガレットはロンドン塔に幽閉されエドワード王子は処刑、ヘンリー6世も殺されてしまい、ランカスター家の敗北が決定的となったのだ。
【第三次内乱】ランカスター家とヨーク家の和解
1473年にはエドワード4世が病没し、息子エドワード5世が即位する。しかし、叔父であるヨーク公リチャードは、エドワード5世が庶子(妾腹・しょうふくの子)であるため、正式な継承者ではないことを理由に王子とその弟を幽閉し殺害すると、自身はリチャード3世として即位するのだ。
この間、ランカスター家一族のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは勢力を拡大していった。1485年の「ボズワースの戦い」ではリチャード3世を敗死させ、ヘンリー7世として即位、その後テューダー朝が開かれることになる。
1486年、ヘンリー7世はヨーク家エドワード4世の娘(エドワード5世の姉)エリザベス・オブ・ヨークと結婚。これを機にランカスター家とヨーク家が和解をはかったことから、30年にわたる内乱は治まったのだ。
そして、ランカスター家とヨーク家の2つの王家が統合されたことによって、赤バラと白バラを組み合わせた新しい「テューダー・ローズ」が紋章として扱われることになったのである。
薔薇戦争終結後のイングランド
薔薇戦争以前の中世では、「騎士は殺さず捕虜とし身代金を取るもの」であったが、薔薇戦争は多くの命を奪い合う戦いであった。
とくに1461年の冬に行われた、タウトンの戦いでは、一日の死者が約3万人とイギリス史上もっとも多いとされている。この戦争では報復合戦が繰り返され、さらにライバルとなる継承権者をできるだけ減らそうとして殺し合った戦いとも言えるのだ。
薔薇戦争以前の大貴族はほとんどが消滅し、約25%の貴族が断絶したとされている。また、この貴族たちの領地は王領化され、王室財産は強化されていく。
薔薇戦争後、王位継承権者もほとんどいなくなったことで、有力な貴族が激減した。このことによりテューダー朝の絶対王政が実現できたのだと言えるだろう。
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まとめ
薔薇戦争は、ランカスター家とヨーク家という2つの王家の権力闘争であり、最終的に勝ったのは、ランカスター家の傍流であったテューダー家のヘンリー7世だった。
百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯によるこの内乱は、百年戦争の敗戦責任のなすり合いが、その後のイングランドの執権争いへと発展したものであったのだ。
この親族間による揉め事のなか、家系図の理解が必要ではあったが、その人間模様は多様であり、シェイクスピアの劇の題材になったのも理解できる。
しかし、この戦いは王家の権力闘争ではあったものの、薔薇戦争は未来への「天下統一の戦い」であったとも言えるであろう。
薔薇戦争、読ませていただきました。
記事構成が素晴らしいので、他サイトよりもとても読みやすい内容になっていると思いました。
ありがとうございました。
ありがとうございます!お役に立てて幸いです!