インパール作戦~数万人の戦死者を出した日本陸軍史上最悪の作戦

インパール作戦~数万人の戦死者を出した日本陸軍史上最悪の作戦

インパール作戦は、第二次世界大戦の終戦間近の1944年の3月から7月初旬に、当時イギリス領だったインド帝国のインパールを攻略しようとしたものだ。結果的に7万人以上の死傷者を出したことから、「史上最悪の作戦」とも言われるインパール作戦の真実の流れを解説していく。

インパール作戦とは?わかりやすく解説

インパール作戦は、「イギリスとインド軍の侵攻作戦を防ぐこと」と「インド領内に拠点を確保すること」を目的とした計画で、1944年1月に大本営が認可した作戦だ。

帝国陸軍では「ウ号作戦」と呼称されたこの作戦は、牟田口廉也(むたぐちれんや)中将が指揮する第15軍によって行動に移され、4月にはインパール付近まで進軍することになる。

しかし、航空兵力に勝るイギリス・インドの攻撃と補給路を断たれたため、退却時に多くの死傷者を出して、その結果ビルマ防衛計画の失敗を招くことになったことから、太平洋戦争でもとくに失敗した作戦と評価されている。

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ちなみに、映画「ビルマの竪琴」はインパール作戦で亡くなったかつての仲間の日本兵をビルマ(=チベット)僧の姿で弔う水島上等兵の物語だ。インパール作戦を深く知りたい人にはぜひ観ておいてほしい作品だ。

およそ7万人の死者を出した「史上最悪の作戦」

インパール作戦の死者は、およそ7万人(死者は3万人で傷兵者が4万人という説もあります)で、その約6割は補給が届かず撤退中に飢えや病が原因だったとされている。

実は開戦序盤においては日本軍は善戦していたのだが、そのことがかえって日本軍に自らの能力を過信してしまった。勢いで押し切れると楽観的に考えた大本営は「兵隊の食糧補給なども現地で敵から奪えばいい」というような楽観的な作戦にはじまり、「大和魂があれば不可能はない」など、ギャグのような精神論で実行されてしまった。最前線で戦った日本兵は、湿度が高く劣悪な環境のジャングルをろくな食料も配給されない状態で行軍するはめになった。

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このインパール作戦で、牟田口廉也は有名な迷言を残している。
「周囲の山々はこれだけ青々としている。日本人はもともと草食動物なのである。これだけ青い山を周囲に抱えながら、食糧に困るなどというのは、ありえないことだ」
当時の大本営がいかに兵站や補給を軽視していたかがわかる言葉だ。

インパール作戦失敗の責任

インパール作戦を強硬に主張したのは、第15軍司令官に任命された牟田口廉也中将。当初軍部でも慎重論が多かったと言われているインパール作戦だが、組織改編によりビルマ方面の状況に詳しい士官が少なかったことから、反対意見は退けられる。

太平洋戦線で押されていた日本が戦局を転換させるためのインパール作戦だが、精神論が優先された結果、兵站(へいたん)を軽視するなどの穴が多く、愚将と言わざるをえない。

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戦後、牟田口廉也中将は回想録のなかで「インパール作戦は上司の指示」とつづっている。一方、中枢である大本営は「計画には関わっていない。第15軍の責任範囲が拡大したもの」とイギリスの尋問に答えている。責任のなすりつけ合いをするほど、ひどい作戦だったということが、ここでもわかるのではないだろうか。

インパール作戦の背景

インパール作戦の背景には、日中戦争が関係している。1937年から大日本帝国と中華民国の間で行われたに日中戦争。当初は両国とも宣戦布告を行っていなかったが、1941年に太平洋戦争が開戦すると両国は宣戦布告をすることになる。これを境に両国の戦闘は激化していく。

そんななか、帝国陸軍は中華民国を援助しているイギリスの植民地「ビルマ」に侵攻。その勢いをもって、ビルマ全土を制圧するのだ。

ビルマ全域の攻略が予想より早かった

ビルマの制圧が予想より早く終わったことから、帝国陸軍はインドへの侵攻の構想をもつことになる。インドに駐留するイギリス軍の主要拠点であったインパールを攻め落とすことによって、中華民国への援助を止め、弱体化できると考えたからだ。この作戦の発案をした南方軍は「二十一号作戦」と名付け上申をする。戦力で劣っていても、ビルマ攻略に成功していた大本営は、戦争の早期終結も期待していた。

しかし、二十一号作戦の主力部隊とされていた牟田口廉也師団長が、雨季の補給の困難なことや交通障害などを理由に反対。現地部隊の反対により二十一号作戦は延期となる。ただ、これにより大本営や南方軍の希望と戦意を失わせてしまったことが、後のインパール作戦に影響していくことになる。

援蒋(えんしょう)ルートの完全遮断

援蒋ルートの遮断は、中華民国の援助物資の輸送路を断つことが目的とされ、太平洋戦争開戦の火種のひとつとされているもの。中華民国の蒋介石政権に味方するイギリス、アメリカそしてソ連が軍事援助をする際に用いた援蒋ルートの奪い合いは、各国の思惑によって激戦地になった。帝国陸軍は、複数ある援蒋ルートを次々に攻めていき、その最後に残った援蒋ルートがビルマルートだ。

強気の姿勢を見せざるを得なかった牟田口司令官

牟田口司令官は、二十一号作戦を反対したことで大本営と最前線に立つ兵の士気を下げてしまう。その反省に立ち、無謀ともいえるインパール作戦を計画実行することになる。

作戦立案当初から兵站の点が問題視されていたインパール作戦は、懸念されていたい通りに兵站不足に悩まされる結果になる。牟田口司令官のもとへは、最前線から補給を求める声が届くが、その場限りの言葉を返すだけでなく、精神論で戦局打開の指示を出し続けることになる。なぜここまで強気の姿勢を崩さなかったのかは、推測に過ぎないがシンプルなものだ。

作戦実行中、無謀な策だということが表面化した際は牟田口だけでなく、直属の上官である河辺ビルマ方面軍司令官も撤退の言葉を出していない。このことから作戦の失敗を取りたくないという自己保身が働いたとする説がある。そんな人としての弱さによって、インパール作戦は泥沼のなかに陥り、多くの犠牲者を出すことになるのだ。

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インパール作戦の実行には、牟田口の直属の上司である河辺正三司令官も作戦に賛同していたことが大きいとされている。作戦立案の時点で他の将校から反対意見もあるなか、「牟田口中将の心情は理解している、牟田口中将の積極的意欲を十分尊重するように」と容認。インパール作戦は、最前線で戦う兵士と指揮官を務める上官の危機意識の違いが招いた悲劇と言えるだろう。

インパール作戦の経緯

インパール作戦は、兵站不足によって結果的に数万人の死者を出すことになるが、その経緯を時系列で見ていく。

インパール作戦の時系列

1944年3月8日
インパール作戦の開始
牟田口廉也中将を指揮官とする第15軍が行動を開始
1944年3月15日
第31師団がチンドウィン河を渡河
行軍を早めるため、食料をもたず家畜を殺し食べながら進むジンギスカン作戦を考案するが、牛の半分以上が渡河時に流される
1944年4月7日
第31師団がコマヒを占領
華々しく日本国内では「第31師団コヒマ占領」が報道されたものの、実際には食料が尽き補給物資が届かない悲惨な状態で、使者は3000人を超えた壮絶な戦いだった。イギリス軍は、日本軍の状態を把握しており、時間をかけてコヒマに増援を送り込むことになる。
1944年5月15日
第31師団の撤退
連合軍の抵抗により日本軍第31師団はテニスコートの戦いに敗戦。戦える状態ではないと判断した佐藤幸徳陸軍中将によって、牟田口廉也中将の命令を無視した独断による撤退を開始。この撤退は日本陸軍創設以来、初めての抗命事件とされている。
1944年7月上旬
インパール作戦の中止
7月4日大本営はインパール作戦の中止を決断します。食料の確保を軽んじた結果栄養失調の兵士が続出し、戦える状態になかった日本軍は7万人以上の死傷者を出すことになったのです。

インパール作戦の教訓

インパール作戦が「史上最悪の作戦」と呼ばれるのは、補給路の確保、戦闘相手の連合軍の分析が杜撰だったことが原因だが、それは表面的なものに過ぎない。作戦の実行は、自分の立場を優位にしようとする気持ちとそれを汲み取った上司との人間関係がもとになっていると言える。

また、戦況が不利になった際には、自らの責任となることを避ける自己保身が、犠牲者をより増やしてしまったのだ。

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インパール作戦は、現代においても学ぶことが多い。戦力の逐次投入や場当たり的な意思決定、そしてなによりも体裁や見栄ばかり気にし、誤ったことを認めずに撤退することを考えない体質がどのような末路を辿るかをインパール作戦は現代に生きる我々に伝えている。
  • 分析ではなく情による戦略を実行するのは危険
  • 精神論になりがちな机上の空論は戦略ではない
  • 勇気ある撤退を決断することが上に立つものの責任

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