話題の作品「キングダム」の舞台となった戦国時代には、戦国七雄と呼ばれる七つの国があった。周王朝が衰退して、秦の始皇帝が中華を統一するまでの数百年の間に、多くの国々が滅びていったのだ。戦国時代に生き残りをかけて争った戦国七雄と、その武将たちについて説明していく。
戦国七雄とは?わかりやすく解説
前770年に周国が都を洛陽に移すと、周王の権威は目に見えて衰えていった。周王朝が弱体化するにつれて各地の諸侯はそれぞれ独立し、争うようになったのだ。
前453年、晋(しん)国はクーデターによって韓氏・魏氏・趙氏に三分割された。そして前403年、三氏が周からそれぞれ諸侯に封じられたのが戦国時代のはじまりと言われている。やがて諸侯らは、勝手に「王」を名乗るようになっていった。
春秋時代には数十か国あった諸侯だが、戦国時代には「韓(かん)」「魏(ぎ)」「趙(ちょう)」「燕(えん)」「斉(せい)」「楚(そ)」「秦(しん)」の7つの国のみとなる。この7つの国または実力諸侯が戦国七雄だ。200年あまりの戦いの末、秦によって6つの国のすべてが滅ぼされ、前221年秦の始皇帝が誕生するのである。
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戦国七雄の勢力図と各国の特徴
以下では戦国七雄に数えられる各国の特徴を簡単に紹介するので、参考にしてほしい。
秦
秦は中国西部を基盤とした国だ。法家の商鞅の改革により、什伍の制などの新しい国家機構を作り、強大になった。また、富国強兵策により、軍事力でも他国を圧倒していた。
楚
楚は長江流域を支配した国だ。屈原(くつげん)の楚辞で知られるように、楚の懐王(かいおう)は秦に囚われてしまう。前278年に秦の白起(はくき)の攻撃によって都が攻め落とされ、以後強国の地位から脱落した。
斉
斉は海に面しており、漁業や製塩業が盛んで、都の臨淄(りんし)は当時最も繁栄した都市だった。前286年斉は宋国を滅ぼし併合したことをきっかけに、前284年燕・秦・韓・魏・趙の5国連合と戦うことになる。なお、このとき斉は大敗し、臨淄は陥落。その後田単(でんたん)によって復興を果たすが、覇権争いからは脱落していった。
燕
燕の都の葪(けい)は現在の北京である。王位を巡る内紛がきっかけで、斉に領土をうばわれている。その後昭王が即位し、前284年、魏・趙・秦・韓・燕の5か国から50万の大軍を集め斉軍を撃破したが、昭王の死後は弱体化した。
趙
趙の武霊王(ぶれいおう)は、北方遊牧民の騎馬戦術を導入して領土を拡大した。都の邯鄲(かんたん)は、交易で大いに栄えていたとされている。前262年~前260年、秦との長平の戦いにて大敗して、強国の地位から脱落した。
魏
魏は戦国初期には最強の国であった。恵王は、周王朝に取って代わろうとしていた。しかし前364年石門の戦いで秦に破れ、前353年桂陵の戦いと前342年馬陵の戦いでは斉に大敗した。以後、魏は軍事的に衰えることになった。
韓
韓は前4世紀なかごろ、宰相の申不害(しんふがい)が国力を高め、外敵の侵入を防いだ。しかし、国境を接している秦と楚の2大強国から圧力を受け、次第に弱体化していく。
戦国七雄の滅亡順
中国の戦国時代は、戦国七雄と呼ばれる7つの国が存在していたわけだが、その中でも秦は次第に力をつけていくことになる。
秦以外の6国は、秦に対抗するために合従策を結んだが、秦は買収や暗殺などの手段を使って、相手の国力が弱まったところを攻撃した。その結果、6国は滅亡し、秦が中華統一を果たすのだ。戦国七雄の滅亡順は以下の通りである。
- 前230年:韓滅亡
- 前228年:趙滅亡
- 前225年:魏滅亡
- 前223年:楚滅亡
- 前222年:燕滅亡
- 前221年:斉滅亡
ちなみに、戦国七雄の覚え方のひとつには、「艦長が偽装して遠征で死んだ(韓・趙が、魏・楚して、燕・斉で秦だ)」というものがある。これは秦に滅ぼされた順になっているので、覚えておくと良いだろう。
秦が中華統一するまでの流れ
秦は春秋時代より富国強兵に力を入れて、国力を増していった。秦は中原西部を支配していたが、そこは山脈と黄河に囲まれた天然の要塞であった。しかも穀物の生育も良い土地だったので、じっくりと国力、戦力を蓄えることができた。他国の文明を取り入れる気風も、人材や新しい戦術に活かされたと言えるだろう。
前246年、政(後の始皇帝)が即位したのは13歳のことだった。宰相の呂不韋(りょふい)が死んで、親政(天子自らが政治を行うこと)を開始する。政は軍備を増強し、法家の利斯(りし)を登用して法治国家としての体制を整え、独裁権力を打ち立てていった。
徐々に国力を高めた秦は、前230年頃から中華統一のための戦いを始め、まず韓を併合し、続いて趙の都邯鄲を陥落させている。
このような状況の中で魏・楚・燕・斉は秦への警戒を強め、スパイを秦へ送り内部攪乱させようとしていた。
燕の太子である丹(たん)らは政の暗殺をたくらむが失敗に終わり、暗殺に激怒した政は、前線の軍を増強して燕を攻め立てさせた。燕の都は陥落したが燕政権は遼東へ逃げのびている。
前225年には魏の都、大梁を水攻めにして陥落させ、前223年に楚を併合した。その後、燕、斉を攻略し、前221年、秦王政はついに中華統一を成し遂げたのである。
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戦国七雄の主な武将
戦国七雄には、功績を残した多くの武将がいる。その中の3人について解説しよう。
「義侠の名将」 燕の楽毅(がくき)
斉の湣王(びんおう)は大変な野心家で、各地で戦って領土を広げていた。斉に対抗するために楽毅は、楚・魏・趙・韓と結んで5か国連合を結成し、総司令官として斉軍を打ち破っている。燕以外の4国は、この勝利に満足して引き上げたが、楽毅は燕軍を率いて戦いを続け、斉の都を陥落させた。5年に及ぶ戦いの末、斉の70余りの城を降伏させ、斉を滅亡寸前へと追い込んだのだった。
しかし燕の昭王が急死し、後継者の恵王は楽毅の功績を妬んで帰国を命じたが、楽毅は帰国すれば間違いなく死を命じられると趙へ亡命した。
亡命をなじる恵王に対して楽毅は、「昭王様の恩を忘れているのではない。もし私が帰国して罪を着せられたら、私を重用した昭王様が笑われてしまうでしょう。君子は遠く離れても悪口は言わず、忠臣は国を離れても弁明しません」と手紙を書いている。
この手紙を読んだ恵王は自らの行いを悔い、楽毅は趙と燕の国を行き来するようになったということだ。
「仁の勇将」 魏の信陵君(しんりょうくん)
信陵君は魏の6代目、昭王の息子である。信陵君の仁徳にあふれる人柄を慕って、多くの人材が彼のもとに集まっていたが、兄の安釐王(あんきおう)からは才能や人望を恐れられ、疎まれていた。
信陵君の武名が広がったのは、前248年の秦による侵略を防いだ戦いだろう。祖国のために斉・趙・燕・楚・韓の5か国連合を率いて秦と戦い、秦軍を函谷関の西に押し込み勝利に導いたのだ。
だが結局信陵君は、秦の流言に惑わされた安釐王に疎んじられ、失意の中で過度の飲酒により死去したとされている。
「天才兵法家」 斉の孫臏(そんぴん)
孫臏は呉(ご)の将軍である孫武(そんぶ)の末裔である。孫臏は同門の龐涓(ほうけん)に妬まれて、罪を着せられ両足を切断されている。その後斉に迎えられ、将軍の田忌(でんき)の食客となった。孫臏が天才兵法家として知られる有名なエピソードには、以下のようなものがある。
「魏が趙を攻めて邯鄲を包囲したとき、田忌は孫臏と共に救援へ向かった。真っすぐ邯鄲へ向かおうとする田忌に孫臏は、魏の本国を攻めれば、魏軍は自国の防衛のために包囲を解いて魏へ戻らざるをえないと説いて、魏を攻め勝利した。
また馬陵の戦いにおいて孫臏は、10万人分のかまどをつくらせ、後退しながら次の日には5万人分、また次の日には3万人分と大きく減らすことで魏の龐涓を欺いている。撤退する斉の軍に脱走兵が後を絶たないと見せかけて魏軍に追撃させ、伏兵を置いて大混乱に陥らせたのだ。龐涓はみずから命を絶ち、太子の申(しん)は捕虜になり、斉は大勝利を挙げることができたのだった。」
まとめ
戦国七雄とは、前403年から前221年までの戦国時代に各地を支配した七つの国のことだ。
200年以上も続く争いの中で、それぞれの国が富国強兵に励み、新しい知識をどん欲に吸収しようとした。そして他国より抜きんでたのが秦の政、つまり、後の始皇帝であったのだ。秦が台頭していく歴史を語るうえで、戦国七雄を知ることは重要な意味があるだろう。